雷鳴と雷鳥
何かおかしいなと思っていると風が吹き込んできて、私の鼻腔に懐かしい匂いを運んできた。それはあの地蔵に備えてあった蜜柑の酸っぱさではなく、塩水が蓄えられ、その蒸発とともに飛散した潮の匂いだった。蜜柑のように鼻に残るものではないが、食道、胃、腸と次々と体を流れていき、肛門から出ていく、そういう匂いだとおもう。
天空橋駅はどうやら海に近いらしい。頭に作った東京湾付近の地図と空港。空港の一つ前の駅だから海が近くて当然だろう。
そんなことよりも、潮の香りの懐かしさ。そしてその思い出し方。それが気にかかる。
エスカレーターを登り、外の風が感じられるようになったときに潮の香りを感じたならばなにも不自然ではない。この駅は海に近いのだな、それで終わる。
外に出て、動物の気配を探しながら、風に乗ってきた匂いを察知する。一寸の間が生み出す違和感。
目の前に案内板があり、その下に青い花が咲いていた。一輪だけだが、その下につぼみらしき小さなものも見える。案内板に近づくと右手に橋が見えた。
そう橋だ。
私はどうにも天空という文字に魅了され、わざわざ電車を降りてまでやって来たわけだが、駅名に隠れた橋に今更ながら気づいた。そう橋なのだ。天空ではない。天空橋なのだ。
すぐに橋に向かう。駅が天空らしい、周りの空気が天空らしい、そんなはずがない。橋が天空らしいのだ。水蒸気と塵が擦れあい、雷を生み出す天空らしい橋がそこにある。私は普段使わない筋肉を使い、少ないが階段をかけ登り、橋の先端でとまった。橋を中央に川がたしかに流れている。
数秒か、それくらい私は立ち止まった。荒くなった呼吸を整えるためではない。
たしかに存在している橋をみて、立ち止まっているのだ。
目の前には錆び付いたような色をした金属がある。人が通るための道はどこにでもありそうなアスファルトだった。雷が漂って、光輝くものではなく、雨を生み出すような塵が散乱しているわけでもない。ただ、昔に作られた橋がそこにあった。
思えばなにを期待していたのか。例え天空橋とは言えただの橋だ。似たり寄ったりのものがあるだけ。
やけに天空という言葉に惹き付けられたのはあの霹靂のせいだろう。あそこまで見事な音が私に届いた。空に興味を引かれても仕方がない。
しかしその興味がまた悪い方向に働いた。妄想は囲いを忘れ、現実の私の行動にまで及んでいる。
目の前の天空橋の凡庸さに体は一気に疲れを見せた。慣れない土地に電車で向かってきた。さらにそこには過度な妄想が付きまとっている。
錆びついた色の橋には確かに天空橋と刻まれていて、確かに目の前に存在している。駅名の由来である橋に一歩踏み出してみたが、どこにも天空らしい点は見当たらず、ただただ風が潮の香りを運んできている。
その風の重さというのは何とも形容しがたいものだが、風に乗っている潮の香りはその重さとは異なり、軽やかな空気を漂わせる。水上を滑空する鳥のように自由奔放に吹く風が単に強いだけなのだろうか。
天空橋をどれだけ進んでも景色はほとんど変わらず、漁船のような船が数隻川面に揺られながら停まっている。付近に人の姿は見えないが、放置されたロープや壊れたブイが散乱する様子は人の生活をにおわせた。
橋は中央に向かって緩やかにカーブしていて、ちょうど真ん中にいる私はほんの少し高い所にいる。高い建物がなく、開けた視界に広がる入道雲のように立派な青空が全身に向けて光を放っている。
私がなぜ橋の中央にいると分かったのかというと、見渡す風景を二次元で表したとき、空に虹を描くのと同じ位置に描くだろう橋があったからだった。向こう側の橋のちょうど中央が私の視界の中央に位置している。
向こう側の橋は天空橋よりも鮮やかな赤色をしていて、京都や奈良にありそうな橋だった。名前はわからない。
その赤は、夕方の空の色よりも濃く、空の色が投射されているわけではなさそうだった。いつの間にか空は夕焼け色に染まっている。その色は決して真っ赤ではなく、入道雲のような立派な雲の輪郭がほんのりと色づいている。その薄い着色は絵具や、その他の綺麗なものを連想させる比喩が似合わず、排煙に混じる化学物質が作り出す、どこか発展途中の工業地帯に現れそうな濁った空の色をしていた。不気味、それらしい空がいつの間にか現れていた。私は意外と長い時間天空橋にいた。
空は晴天かどうかわかりづらい夕焼けになり、烏が一つ、鳴いた。時計を見なくとも夕刻になりつつあり、もうすぐ日が暮れるのがわかる。天空橋は空の変化に左右されることなく錆びついたままだが、空の変化に私は天空橋の中央に居続けることを止めた。赤い輪郭を持った雲がゆっくりと動く様を延々と橋の中央で見続けられるほどどこか心に余裕がなく、歩くことでその隙間を埋めるのだ。散策とは一種そういう側面がある。
橋を渡りきると振り返った先に駅が見えた。なんとなく選んだ道は駅とは真逆で、私は天空橋を渡り切った。
その時の何とも言えない気持ちの様子は空の幻想的なものがもたらしたものなのだろうか。
どこにでもありそうな錆びた色をした橋を渡り切った。それに達成感に似たものを感じるというのは聊か不自然で、空の様子に魅了されたといった方が何倍もましに思える。
なんとなくこの先の道が気になり振り返ると風が背中にあたり、右の足が飛ばされそうになった。体を飛ばすほどの風圧がやってきたわけではなく、少し向こうの木は全く揺れていないし、着ている服も揺れていない。私は踏み出すように飛ばされた右足に続いて左足を出し、二、三歩進んでみたが特に関節や筋肉に異常がないことを確かめ、行く当てもなく先に進むことにした。
空は相変わらず幻想に包まれている。真の天候をその幻想が隠しているような、そう思えるくらいの空模様だった。
猫が一匹座っている。
天空橋を渡り切り、私は橋の中央から見えた赤い橋を目指すことにした。この付近に詳しいわけでもなく、友人がいるわけでもなく、ただ物珍しさで訪れた散策の地。目に入った珍しいものに惹かれるのは野良猫のように自由でなんとも楽しくもある。
私が歩くたびに空はどこから湧いてきたのか雲が増え、その雲は雨を降らすような雨雲でなく、全く知らない何かを振り落としそうな雲であった。硬い物体をあそこから無慈悲にも人間の頭めがけて振り落とし、当たった、外れたと歓喜、落胆を繰り返す
退屈な空を思い浮かべる。
そしておそらくその硬い物質が空中を落下しているうちは地上にいる人間の目には流れ星のように美しく映る。それも赤い輪郭を持った無数の雲の群れから光りながらやってくるのだ。
そしてその光の正体が何か固形のもので、さらに落下してくる方角が自分めがけてのものだと察した時、その美しさが避難の合図となって人間の拙い記憶に刻まれる。
今、空から何かが降ってきても私は驚かない。そういう想像を働かせている私だけが固体の雨の風景を俯瞰的に見て、それに慌て、衝突とともにもぎ取られた首が地面に散乱している様子を笑いみることができるのだ。
猫がこちらを見ている。