雷鳴と雷鳥
アイスコーヒーのグラスを掴むと手が濡れた。中の氷はまだ融けていない。そのままストローから液体を吸い込む。コーヒーの苦みと渋みが強く出てしまっている。安いコーヒーだから仕方ないともう一口飲むとやはり味は変わらず、黒く汚れた水ではないことがわかるのだ。
店員がアイスコーヒーとアイスカフェラテを間違えたのか、老人が騒いでいる。頭を下げ、謝る店員を杖で突くような素振りを見せだしたところで店長らしき男が間に入り、老人は出されたアイスカフェラテを手に取り喫煙席へと向かった。私はその一部始終を見ていたわけではないが、なんとも店員が可哀想に見えた。確かに老人はアイスカフェラテと言った。大きな声は自然と耳に入るものだ。
そしてコーヒーを口の中で転がしながら空気と一緒に飲みこみ、京急空港線の路線図を見ていると天空橋という文字が紙の奥に沈むような色合いを見せた。空港の一つ前の駅。なんとも駅名らしくない名前だと妙に気を引かれ私は品川行きの山手線の時刻を調べ、残っているコーヒーを強引に飲みこみ、口の中の苦みを楽しみながら一四番線ホームに向かった。
電車は交通手段でしかない。
電車が品川に着くとかなりの数の人が降り、スーツケースを持った女性が入り口付近で押し倒された。私はそのドアの一つ右から外に出たため、トラブルに巻き込まれることもなかったが、女性が財布を線路に落としたようで、駅員が慌てて棒で電車とホームの隙間を探っている。山手線はこれからしばらく遅延しそうだ。
よく五分遅延、といった表示を目にするが、その要因を目の当たりにするのは久しぶりのことで、さらにそれが人身事故でもない、些細な落とし物というのがどうにもおかしかった。ボストンバックを持つ右手が痺れだし、私は京急線の乗り換え口まで急いだ。女性は不安そうにスーツケースを握っている。
旅行に荷物が少なくて済むようになったのはいつからだろうか。あの女性のように大きなスーツケースを引きずり、右肩にボストンバクを、どうにかうまいこと土産用の紙袋を、とやっていた頃が懐かしく思う。
時代も進み、pc用のACアダプターも必要なくなるほどpcのバッテリーライフも向上し、さらに着る物もそこまでこだわらなくなったからか荷物が減っていく。毎回自分の荷物の少なさにどういうわけか不安を感じながらも旅行が終わるたびにいい荷物量だったと自分をほめるのだ。
京急線品川駅は快特や普通、空港快速といったいくつもの電車が停まるため、ホーム上には電車の種類ごとに乗車位置が区切られていた。空港快速は青いところで待てばいいらしく、見渡すホーム上の青い所には誰も立っていなかった。おそらく電車が行ったばかりなのだろう。私は一番近い青い乗車位置の先頭に並んだ。
次の電車は京急久里浜行きの快特のようで、緑の乗車位置に人が並んでいる。
その光景は東京の主要駅で見られる綺麗な並びで、だれもその列を壊すような行動を起こしていなかった。
ぎっしりと詰めて並んだ緑の乗車位置。ただ不可解なのは私が先頭に並んだ乗車位置のすぐそばにある緑の乗車位置。そこも快特が停まる正しい位置のはずなのに、たった三人しか並んでいない。ネクタイが曲がった冴えないサラリーマンと、紙袋を二つ持った女性、英単語の本を持つ制服姿の女子高生だった。
サラリーマンが電話に出た。取引先だろうか、敬語を連発しているのが聞こえる。
女性の紙袋の中には高級そうな箱が見えた。指輪か、時計か、そういう類の箱だった。
Embrace と呟きながらページをめくる女子高生。
三人は確実に関りを持たない人々で、今日、品川のこの場所で出会い、電車を降りればすぐにその関係は切れるという、弱い関係図をもっている。蜘蛛の巣は細い代わりにかなり強いという一見すると分からない特性があるが、そういうものがこの三人に適応するとは全く思えなかった。
京急線は一駅の間隔が広いため、普通電車を二つほど待ち、快特電車使った方が早く着くため、横浜などの大きな駅を目指す多くの人は快特に集まる。その途中の一軒家やマンションに住む地元の人間よりも、観光や仕事を目的とする人間が比較的多い。
私の友人は鮫洲に見事な家を持っているため、そういうことをよく私に話していた。空港線には意外と民家が多くあるから、スーツケースを持たない人も多く乗るそうだ。その友人とはもう二年ほど会っていない。
さて、三人の後ろに人は一向に並ばない。京急久里浜行の電車はもう二分ほどでやってくる。他の列はますます数を増やしている。三人が立つ付近に奇人でもいて、関りを持たないようにわざと避けているような、それほど人が寄り付かない。
右の方から電車が入ってきた。人々はまだ動かないが、駅員がマイクで案内する。黄色い線の内側でお待ちください。
緑の乗車位置で並ぶ人間は皆一歩前へ出た。ケーキの生地の空気抜きのように見事に隙間が埋まっていく。
電車が停車位置に見事に停車すると開いたドアから数名が降り、そこから無数の人が入っていく。昔ペットボトルで作った魚を捕まえる罠は、一度はいると出られないと先生が言っていた。川に沈めた改造ペットボトルには魚が吸い込まれるように入っていった。ちょうど電車がそれに見えた。
そんなことは起きない。これまでの経験がそう答える。
電車に詰め込まれ人は皆視線を合わせないようにと務めているようだった。
そういう満員電車の風景におかしな風景が混じっていた。いや、どこもおかしくはないのだ。ただ、私がほんの少し辛辣な思考を電車に重ねていたところに現れた誤差がおかしく思えただけなのだ。
あの三人だ。なんと青い乗車位置にも種類があったようで、二ドア、三ドアと一両につくドアの数でさらに分けられていたのだ。今回の京急久里浜行は三ドア。三人がいたところにはドアが来なかったのだ。慌てた三人は同じような顔をして皆隣のドアに向かって小走りで向っていった。扉がしまり、ガラス越しに見えた三人は同じような形をした肉の塊の中で特異な笑みを浮かべながら電車に揺られていた。
京急線の日常が見られたことで体のどこかにあった錘のようなものが軽くなったように思う。それはチナの死を実感しだしたことによるものなのか、それともあの霹靂がまだ薄い鼓膜に張り付くように残り、脳内の電気信号を乱しているような感覚をずっと持っていたことによるものなのか、可能性がいくつも思い付き、私は京急線の青い乗車位置でいくつも思い浮かべては、それはないと考えを否定し続けるのだ。
とにかく、あの霹靂の後、雨は一度も降っていないのにもかかわらず、日常の音の中にあの霹靂が隠れるように聞こえるのだ。それは電車の走行音に紛れていたり、梅酒を入れたグラスの中の氷のカランという音にも隠れている気がしてならない。
そしてあの鳩!あの鳩がどうも頭から離れない。
やってきた電車に乗り、私は品川駅を後にした。車内はいつも通り静かで、大きなスーツケースを持った人間が数人いた。それぞれ特徴を持ったケースの中に無数のものを入れては同じようにチャックを閉め、中を見せまいと頑固なまでの硬さをその表面に見せる。