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雷鳴と雷鳥

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 しかしどうだ。あの鳩は一切飛ぶ気配がない。雨が羽にかかり、重さを増しているからか。羽の色の具合が金属のように見える。さらに鳩の歩行は並みの鳩のものではなかった。まるで鶏のようだった。
 鳩が器用に歩くたびに水たまりに浸かった足が濡れ、足を上げると小さな水しぶきができる。その水しぶきに色が付き、虹を地面にとてとても近い所に作ることはない。虹はいつも決まって空高くにあった。
 虹の色彩の別れ具合は国によって大きく異なるらしく、七色に見えるのは日本人だけなのかもしれない。さらに言えば、日本人の中に虹は三色だと言い張る人もいるのも事実だ。
 赤、青、黄色、その他の無限の色が今、目の前に作られることはないだろう。雨が止んで、私が地蔵の小屋を出て少ししたら、運よく見られるかもしれない。

 鳩は虹を待っていない。どの風景をみてそう思ったのか、わからないが、私は鳩と雨を見ながらそう思った。通常鳥は雨に濡れないように心掛けるだろう。鳥類研究家ではないから、鳥の詳しい生態はわからない。しかし、空を飛ぶために全身を進化させた鳥が空を飛ぶことは自然で且つ、それ以外鳥を定義するものを私はもっていない。ヤンバルクイナやダチョウは私の中で鳥ではない。
 その条件を自ら放棄するかのように雨の継続を願っている。そういう変な鳩が目の前にいるように思うのだ。それは鳩のおかしな行動から感じるものというより、鳩を見ている私側の問題だとおもう。

 小屋には誰も入ってこない。蜂蜜色のアパートの方からは誰も踏切を渡ってこない。私が雨から鳩に集中の的をずらしてから、踏切は何度か点滅し、何度か電車が走行音を持ってきた。それに過剰に干渉されることはなく、私はただただ鳩を見ていた。
 鳩はおかしなことに私の妄想通りの行動を見せ始めた。突然止まったかとおもうと翼を大きく開き、空中に漂っていた雨粒を自ら羽につけ、さらに降り続ける雨を精一杯に受けていた。次第に濡れていく体は色濃く染められていく。鳩を濡らすのは今、目の前に降ってきている雨と同じ成分で、同じ色を持っているはずで、何の変りもない。しかし、どうにも鳩に降ってきていた雨に拍手喝采のような光景が重なって見えたのはどういうわけだろうか。大きく広げた体に当たる雨音は私には聞こえないが、鳩の周辺にはシンバルが作り出す波のように大きく響いているのかもしれない。その音を無意識に想像し、鳩が濡れる様子に拍手をみたのかもしれない。鳩の飛翔を自ら奪うその姿に勇敢な戦士のようなまなざしがどこかからか向けられているのかもしれない。
 さらに鳩は雨の中で踊るようにくるくると回っていた。体の隅々まで雨で濡らすためか。回転続き、きっと眩暈が鳩に起きているだろう。鳩の目が蜂蜜色に染まり、踏切の黄色と黒に染まり、点滅する赤い光に染まっていく。
 何週回ったか、鳩がこちらを向いて止まった。すると広げていた羽を一度たたみ、じっと私を見た。まるで自分の恥ずかしい空想を見られた時の人間のような目だった。蜂蜜色が鳩の目に残っていた。
 そして鳩は雨が止んでいない空に向かって見事な飛翔を見せた。踏切の方に向かって斜めに飛ぶ姿はいつもの鳩のもので、雨に濡れた翼の重さはその飛翔には現れていない。羽ばたくたびに翼に染み込んだ雨水が落下していく。その雨粒は空から自然落下してきたもの、傘を経由して速度を落としたものとも違う自由な滑空をする雨粒だった。空中で水平に飛び、鳩の後をつけるように飛ぶ雨粒。自然落下する雨粒。無数の個性を持った雨が鳩の後ろにできていた。チナを持ち上げた鳥はあの鳩より大きいだろう。










 チナが死んだという手紙を雨の中で読んだ日から一週間くらいたっただろうか。私はチナがいる故郷に帰ることはしなかった。それほどまでの愛情だったとおもった。
 人の記憶は声から消えていくと聞くが、それはあまり興味がないことに対してのみで、一定の関心を保ったまま残り続けた記憶は声ではない、別のものの消失から始まる。
 私がチナに持っている記憶はかなり薄く、味気ない写真を通したものだったので、チナに関する記憶は声から消えていくと思っていたが、チナの鳴き声を一度も聞いたことがないと気づいたのは昨日のことだった。

 福井に住む友人が結婚式を挙げるということで、私は昨日急いで飛行機を取り、荷物を簡単にまとめ、早朝家を出た。
 チナに会うための帰省ではないが、ちょうどいい機会だと私は一日余分に休みを取り叔母にも一日邪魔する、と伝えておいた。深夜のことだった。
 
 あの踏切にはあれ以来行っていない。霹靂が肌に残した震えはまだ残っている。日がたつにつれあれは雷鳴ではなく、霹靂だと強く思った。これまで霹靂というものを見たり、感じたりしたことはなく、人にこれが霹靂だよと教えられたこともない。感覚的に霹靂だと思うのは変なことだろうか。

 霹靂がどういうものだったか、一週間経つと記憶は曖昧になっていくもので、私はあの霹靂を詳細に思い出すことができない。さらに、霹靂と共にあった雨景色と踏切の音もかすれるようにして消えている。
 明確にわかるのは今日の天候はあの霹靂と正反対のものだということだ。
 福井までの飛行機は羽田空港からでるので、まずは羽田まで電車で行かなくてはならない。空港行きのバスもいくつか出ているが、どうもバスのあの独特の匂いが気分をひどく害し、窓から見える風景すら濁った空気に晒されている、そんな妄想が働いて気持ちいい空港付近の空気までも汚すような気がしてバスは避けた。
 羽田空港まで電車を使う場合、二つ手段がある。山手線浜松町駅からモノレールを使うのと、品川駅から京急空港線を使うというものだ。どちらも時間的にも金銭的にも大きな差はなく、もちろん些細な差はあるので貧乏人や時間に追われている人間はその差を優先するだろうが、私は両方ともどうでもよい点で、それ以上にどちらにもある利点を重視することにした。
 
 新宿の駅構内のカフェは聊か狭く、特に禁煙席は数人用の椅子以外には立ち席が少しあるだけだった。アイスコーヒーの一番小さいサイズを買い、一つ空いていた椅子には座ることなく、立ち席に中村文則の文庫本を一冊置き、コーヒーにストローをさした。
 スマホで路線図を開き、山手線の緑の線を辿る。新宿からだと品川の向こうに浜松町がある。時間的に京急線を使った方が早いと分かる。
 しかし厄介なことに都会の時間感覚は福井の田舎のものとは違うもので、確かに距的な時間は京急線の方が早いが、電車がやってくる時間と、そもそも京急線とモノレールの速度によってその距離的時間は根底から価値を失うのだ。
 勿論この転換は福井の電車にも起きることだが、乗り換えを頻繁に行う東京では露骨にこの転換が姿を現す。
 時間の差はわからない。すぐに調べることもできるが、なんとなく山手線から京急線へと目線を移すと品川、北品川、…と続き、京急蒲田で線が分離し、空港へと向かう。
 羽田空港国際線ターミナルという文字が大きく目に入るとやはり京急線であっていたと自分の記憶の確かさに安堵した。 
作品名:雷鳴と雷鳥 作家名:晴(ハル)