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雷鳴と雷鳥

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雨の粒の表面の様子を細かく言いあてられるほどの視力はないため、降っている雨粒がどういう形をしているのか、懸命に目を凝らしても私にはまったくわからない。しかし、雨の勢いがそういう努力を掻き立てるように弱まっているのだ。ぽつぽつと降る雨だから、もしかしたら雨粒の表面の様子がわかるかもしれない、という薄い希望が現れる。表面には雨景色の色が混じっているかもしれないし、どこかで死に絶えた人間の生臭い血が風に流れて、雲に達したことで、薄い赤い色を出しているかもしれない。雨粒の中で生き物が生きているかもしれない。鯵が優雅に泳ぐ様子を目の前に垂れ落ちる雨粒に投影させてみる。
雨はもうすぐやみそうになると、もう一度勢いを増した。それは椚を蹴った時に降り落ちてきた残り雨のようだった。雲にため込まれた水分があとどれくらいあるかはわからないが、少なくともあと少しは雨が続きそうだった。
猫はやはり雨だからかやってこない。茶色の毛並みにぽつっと浮かぶ雨粒はきっときれいだし、揺れる尻尾が水に濡れて細くなった様子をみたら、元のふさふさの毛を想像して悶え、喉の奥が閉まる感覚に陥るだろう。
記憶の中にいた猫は小さかったが、今はもう少し大きくなっているだろう。近所の子供の成長の早さには驚くものがあるが、それ以上に動物の成長の早さは異常なまでの時間の圧縮を感じる。一週間も離れれば子犬は犬になる。
約一年。それくらいの年月が経っているから、もう猫は死んでいるかもしれない。人身事故で電車が遅延したり、運転見合わせになったことがこの一年でかなりあったが、そのうちの一つはあの猫がかかわっているかもしれない。赤く点滅する踏切内の線路で優雅に眠る猫を守るために勇敢に飛び込んだ青年。登場人物を切り替えれば無数に出来上がる物語が見えないけれど存在している。

踏切の向こう側には綺麗な色をしたアパートがある。蜂蜜のような色をしていて、名前もハニーズとなっていた。線路を挟んで少し距離があるため、六つある大きな窓から見える中の様子はわからないが、雨が降っていから、おそらくすべての窓は締め切ってある。
二〇三号室では男が拳銃を持って老婆を脅している。老婆は何もわかっていないような顔をしている。表情筋は強張ることなく、むしろ笑っている。
三〇四号室ではカマキリの卵が二つほど孵化していて、旅行か何かで留守となった部屋中を歩き回っていた。まだ柔らかい体が無数に分かれて埃に絡まり動けなくなるものもいた。
二〇七号室では開けられたままの微糖の缶コーヒーの中で黄色い黴が繁殖している。雨の湿気が部屋に入り込みさらに速度を増していく。

地蔵に背を向け、雨が降る街並みに意識を融かすような感覚のまま持っていた手紙をもう一度開く。踏切にたどり着く前に封を切って、ずっと持っていたのだが、降り出した雨の勢いと、それに伴う異様な興奮によって存在を忘れかけていた。傘を手放したことにより空いた両手で手紙を見る。

 チナが昨日死んだ
 大きな鳥に襲われて空高く持ち上げられてそのまま落下した

 茶色い封筒に入っていたメモ帳のような便箋に書かれた文字は叔母のもので、んという文字の特徴的な形がまだ残っていた。
 そういう手紙の特徴が初めに頭に入りこみ、その内容は後から遅延して理解できた。
 チナというのは猫のことで、福井の田舎町の民家の壁に挟まっていたところを助けて以来実家で飼っていた。私の実家も横の家の壁、つまり、私の実家のすぐそばにはさまっていたのだ。その時のチナかなり小さく、生まれたての子猫で、真っ黒の毛並みをしていた。尻尾は短く、ゆっくりと動かす様子は悪魔のようにも見えた。それはちょうど一年前くらいのことだった。突然の叔母からの連絡にはチナという文字と子猫の写真が入っていた。私はチナの存在を手紙でしか知らない。
 私は直接チナを触ったり、餌をあげたりしていないので、関係はかなり薄いものだが、一応家族の一員ということで少しばかりショックを受けた。叔母がチナをかわいがっていたのはとてもよく伝わっていて、時々こうしてやってくる手紙には必ずチナという文字と、特徴的な、んがあった。

 死んだチナは黒猫だった。ここにいた猫は茶色。明らかに違う猫だが、どういうわけだかチナとあの猫が重なる。子猫だったからだろうか。
 子猫。そうチナは子猫だった。一年もすれば体はずいぶん大きくなり、片手でつかむことは難しいくらい重くもなるだろう。そういう猫をもち上げた鳥。なかなかの大きさだということがわかる。
 鳥を想像すると、叔母のその時の顔が想像できた。驚くというより、恐怖に近い表情。しかし、それは一瞬ですぐさま鳥を狩るためにそばに落ちている枝をとってえいやえいやと威勢のいい声を出しながら飛び立とうとする鳥を邪魔する。
 
 叔母と鳥の格闘を想像しながら私は止まない雨を見ていた。雨が直線を描きながら降っている。その一滴一滴の隙間はずいぶん狭く、水の反射具合も相まって水のスクリーンのように見える。投影機はもちろんないが、踏切の赤い点滅がその役割を兼任していた。
 雨が降る中、雨に濡れるのは先を急ぐ人間か、足が生えていない草や、固められた人工物で、人間以外の動物はできるだけ雨を避ける。雨が嫌いという感情的なものではなく、水を避ける本能的なものなのだろう。
 蟻も雨を避けて地蔵の近くにいたのだ。それを無感情で殺した私も動物的な行動をしていたのだろう。


 空がごろごろとなったかと思うと光ることなくそのまま雨を続けた。白く濁った空気は雨の湿気によって重苦しいものになっていたが、雨に濡れずに雨を見ている私の周りだけはからっと乾いているような気がした。
 というのも私の目の前に人間が当然現れたからだった。赤い傘を差した女性、スカートをはいている、そういう女性が踏切の前で立ち止まった。電車が通り、線路に残っていた雨水をはねのけていく。女性はデンシャの通過を特に変わらない様子で眺め、踏切が音を消すと同時に先を急いだ。赤いスカートの裾のところが濃く変色していた。傘の内側まで降り込んでくるような激しい雨だった。
それでも地蔵の小屋は濡れることはないようだった。
 女性がそのあとどこへ向かったかはわからない。蜂蜜色のアパートに入ったかもしれない。あの濡れたスカートが早く乾いて皴にならないことを願う。
 
 女性が通って行った踏切の音はいつもより長く思えた。カンカンカンと響く音の回数は数えていないが、なんとなくそう思った。
 そして女性が去った踏切には鳩がやってきていた。雨に濡れた羽が見える。地面に近いところをとことこと歩く鳩はどこにでもいそうな柄と色で、珍しい白い鳩でもなく、地味でつまらない鳩だった。
 しかし、それは外観だけで、鳩の様子はものすごく珍しい。
 鳩は空を飛ぶ。表情一つ変えずに飛び立つその瞬間には人間を驚かせる一面が隠れている。飛び立つ姿は鳶も鷲も鳩も変わらない。翼の大きさは異なるが、そういう見える差は鳥がもたらす驚きに関与しない。
 飛び立つ瞬間、地面に散っていた砂を巻き上げるのが鳥の飛翔だ。
作品名:雷鳴と雷鳥 作家名:晴(ハル)