雷鳴と雷鳥
「雷鳴と雷鳥」
雷鳴が聞こえた。それはどこか一点からというより高いビル群が犇めく東の方角の空中の面から伝わってくるようだった。その音の広がり、それは雷鳴というより霹靂というものが合いそうで、かみとけ、そう読むと叔母が言っていた。稲妻は手元の手紙に集中していたため見られなかったが、おそらく霹靂の少し前に私に届いていた。
記憶の中の踏切はもっと甲高い音、通り過ぎる電車の走行音にも負けないほどの音を鳴らしていた。目の前の踏切の音はたまにかかってくる電話の着信と同じくらいの音しかなかった。
雷鳴が聞こえる少し前から雨も降っていたため、雨粒の落下の音がほんの少し踏切の音を掻き消しているのかもしれない。雷鳴が聞こえた時くらいから雨はひどくなり、透明なビニール傘を突き破りそうなほどの豪雨となっていた。一歩進むにも歩幅を小さくして、雨の跳ね返りをどうにか避けながら歩かなくてはならない。
踏切が点滅しているため、手前で立ち止まる。傘の範囲外では雨が勢いよく降り注ぎ、傘の上では勢いを失わされた雨粒がたらたらと垂れている。右手を傘の範囲外に出すと瞬間に手が濡れた。手の甲の油に負けないほどの雨。皮膚の隙間をうまく潜り抜け皮膚を潤すような雨粒だった。
数秒後には皮膚は飽和状態に陥ったのか、雨粒は同じ形を保って私の手の甲から落下していく。失われた勢いがまた雨粒に加わり、丸かった表面の形を剣のように先が鋭い形に変えながら雨粒が落下していく。
雨が降り続いているため、足元のアスファルトにはだいぶ水たまりができていた。どれも雨の色というよりアスファルトの色をしているが、私が立っているところの右下にある水たまりだけは色が違って見える。それは赤や青といった有色が混じっているということではなく、色の濃さというか、そういうわかりにくいものが混じっているような、ほんの些細な誤差だった。
雨が視界を邪魔するたびに思考が空想に傾き始めるのがわかった。誰もいない踏切の前で傘をさして立っている。なんとも際限ない空想を掻き立てるだろうか!
さらに雷鳴。霹靂。
静かに続く前の音の中に突如現れた爆音。
その大きな変化に空想を重ねることはどれほど楽しいだろうか。
白い空と白い雨がただただ気分を沈めさせていた。その凝り固まった思考の僅かな隙間を縫うように雷鳴が鼓膜を刺激し、薄い皮膚とその下を流れる血を一緒くたにして震わせたのだ。
あれ以来雷鳴が聞こえない。均一に聞こえる雨の音が踏切の音を隠していた。赤く点滅していた踏切はもう色を消している。いつのまにか電車は通り過ぎていた。
踏切の棒はすでにあがり、通行を遮るものはなくなったが、隙間なく降り続く雨のせいか、どうも一歩踏み出す気にならなかった。家からここまでどうやって平然とやってきたのか、かなり疑問に思う。雨が暴力的に降り続ける中をこんな透明で、今にも破けてしまいそうな傘一つ持って。傘の骨が一つ折れそうに曲がっていた。豪雨に混じっている強風のせいか。
踏切がまた鳴り出すまで私はその場で雨に打たれ続けた。不思議と言おうか、当然と言おうか傘を通り抜けて雨に濡れることはなく、傘の範囲外にぽたぽたと雨が滴り落ちている。均一に広がる雨景色が意識を薄くさせていくようで、誰も通らないこの踏切道がなおさら意識を一人にさせた。
雨は変わらず降っていたが、風が突然強く吹き、私の透明な傘の骨を一本、ぐにゃっと曲げた。その曲がり具合だけが雨景色の中で珍しく奇妙な形をしていて、見慣れた風景に溶け込むようにしていた私の意識をぐいっと傘の内側に引き込んできたのはほんの少しばかり面白くもあった。
強く吹いた風によって運ばれてきたのか、新聞紙が一枚私の目の前を飛んで行った。雨に濡れて重いはずの新聞紙があれほど飛ばされたのに、私自身は一切横雨に濡れていないということが不思議で、折れた傘の骨がなおさらおかしく見えた。
新聞紙はすぐそばの地蔵がある小さな小屋のようなところに張り付いた。この付近を通る人はかなり少なく、近所の家も空き家が目立っている。電話番号と居住者募集の文字が散見される家々に囲まれ、ぽつんとある地蔵だった。そもそも現代で地蔵を見つけ手を合わせ、何かを願ったり、そういうことをする人がいるのだろうか。ましてや供え物をわざわざ持ってきて、この踏切の前で地蔵のために腰を曲げる人が、この東京にいるのだろうか。地蔵が突然動き出し、願いを叶えるといった映画だとか、そういうものが流行れば話は別だろうが、最近そういう話は聞かない。
さらにこの地蔵だが、囲まれた小屋が随分古いもので、今にも壊れそうな、腐った匂いを放ちそうなものだった。黒ずんだ木の表面には何年にも渡って雨粒が当たったのだろう。傘は雨が降っていなければ家の中で安静にしているが、この小屋は晴れなら太陽に焼かれる。鳩が糞を落としたり、今日みたいな強風に延々と耐えることもあるだろう。
前にこの地蔵を見たのはいつだろうか。一年前にそこに猫が寝ていたのを見たことがあったような気がする。ここではない地蔵の近くだったかもしれないが、記憶が書き足されていくような感覚でそういうことにした。
この雨の中猫が寝ていることはなく、猫抜きの同じような風景が目の前に再現された。そしてその小屋は人が一人入れるくらいの大きさで、小さい地蔵のためには随分と大きいものであった。私は猫ではないが、雨に濡れることを嫌うヒトだったため、なんとなく地蔵の小屋に入って雨宿りをすることにした。この豪雨は最近多発しているゲリラ豪雨という奴だろう。雷鳴だってもう聞こえない。電車が過ぎていくように東の方角に行ってしまったのだろう。雨雲も遅延して向こう側に行ってしまうだろう。
地蔵はやはり小さく、その首元にかけられた赤い布切れは子供の手袋ぐらいの大きさしかない。その下に置かれた供え物の蜜柑は腐って変色し、晴れた日なら蠅が数匹喜んで集っていそうなものだった。その不気味なまでの色。黴が生えているというより、蜜柑の皮がそのまま劣化し、構成物質が突然変異したような。かろうじて蜜柑らしく思えるのは腐った匂いの中に混じる柑橘系の爽やかな香りを感じ取れるからだ。それも雨に混じる土の匂いに掻き消されそうなほど弱いものだった。しかし、その弱さが際立って私の鼻腔を刺激したのも事実だった。
そのまま雨が小屋の屋根から垂れ落ちる様子をぼおっと眺めていた。閉じた傘の外側についていた雨粒が重力に沿って落下し、傘の石突きのところに水たまりを作っている。そこに迷い込んできたのか、蟻が一匹ぷかぷかと浮かんでいるが、私は見えないふりをしてその蟻をこつこつとつぶした。水に溶けだした蟻の色を知覚することは距離的にも色彩的にも難しかった。
雨は変わらず降っているが、小屋に入る前より勢いが弱まっていた。やはりこの雨はじきに止む。
雨が止んだあと、どうしようか。雨宿り目的なら地蔵の小屋にいても問題なさそうだが、晴れた空の下で、地面に残った雨が蒸発する中で小屋にとどまれば、不審者か、何かと思われても仕方ない。手元に双眼鏡や地図はないから、暇な学生くらいに思われるかもしれないが、やはり住宅街でのその行動は異様に見えるだろう。
雷鳴が聞こえた。それはどこか一点からというより高いビル群が犇めく東の方角の空中の面から伝わってくるようだった。その音の広がり、それは雷鳴というより霹靂というものが合いそうで、かみとけ、そう読むと叔母が言っていた。稲妻は手元の手紙に集中していたため見られなかったが、おそらく霹靂の少し前に私に届いていた。
記憶の中の踏切はもっと甲高い音、通り過ぎる電車の走行音にも負けないほどの音を鳴らしていた。目の前の踏切の音はたまにかかってくる電話の着信と同じくらいの音しかなかった。
雷鳴が聞こえる少し前から雨も降っていたため、雨粒の落下の音がほんの少し踏切の音を掻き消しているのかもしれない。雷鳴が聞こえた時くらいから雨はひどくなり、透明なビニール傘を突き破りそうなほどの豪雨となっていた。一歩進むにも歩幅を小さくして、雨の跳ね返りをどうにか避けながら歩かなくてはならない。
踏切が点滅しているため、手前で立ち止まる。傘の範囲外では雨が勢いよく降り注ぎ、傘の上では勢いを失わされた雨粒がたらたらと垂れている。右手を傘の範囲外に出すと瞬間に手が濡れた。手の甲の油に負けないほどの雨。皮膚の隙間をうまく潜り抜け皮膚を潤すような雨粒だった。
数秒後には皮膚は飽和状態に陥ったのか、雨粒は同じ形を保って私の手の甲から落下していく。失われた勢いがまた雨粒に加わり、丸かった表面の形を剣のように先が鋭い形に変えながら雨粒が落下していく。
雨が降り続いているため、足元のアスファルトにはだいぶ水たまりができていた。どれも雨の色というよりアスファルトの色をしているが、私が立っているところの右下にある水たまりだけは色が違って見える。それは赤や青といった有色が混じっているということではなく、色の濃さというか、そういうわかりにくいものが混じっているような、ほんの些細な誤差だった。
雨が視界を邪魔するたびに思考が空想に傾き始めるのがわかった。誰もいない踏切の前で傘をさして立っている。なんとも際限ない空想を掻き立てるだろうか!
さらに雷鳴。霹靂。
静かに続く前の音の中に突如現れた爆音。
その大きな変化に空想を重ねることはどれほど楽しいだろうか。
白い空と白い雨がただただ気分を沈めさせていた。その凝り固まった思考の僅かな隙間を縫うように雷鳴が鼓膜を刺激し、薄い皮膚とその下を流れる血を一緒くたにして震わせたのだ。
あれ以来雷鳴が聞こえない。均一に聞こえる雨の音が踏切の音を隠していた。赤く点滅していた踏切はもう色を消している。いつのまにか電車は通り過ぎていた。
踏切の棒はすでにあがり、通行を遮るものはなくなったが、隙間なく降り続く雨のせいか、どうも一歩踏み出す気にならなかった。家からここまでどうやって平然とやってきたのか、かなり疑問に思う。雨が暴力的に降り続ける中をこんな透明で、今にも破けてしまいそうな傘一つ持って。傘の骨が一つ折れそうに曲がっていた。豪雨に混じっている強風のせいか。
踏切がまた鳴り出すまで私はその場で雨に打たれ続けた。不思議と言おうか、当然と言おうか傘を通り抜けて雨に濡れることはなく、傘の範囲外にぽたぽたと雨が滴り落ちている。均一に広がる雨景色が意識を薄くさせていくようで、誰も通らないこの踏切道がなおさら意識を一人にさせた。
雨は変わらず降っていたが、風が突然強く吹き、私の透明な傘の骨を一本、ぐにゃっと曲げた。その曲がり具合だけが雨景色の中で珍しく奇妙な形をしていて、見慣れた風景に溶け込むようにしていた私の意識をぐいっと傘の内側に引き込んできたのはほんの少しばかり面白くもあった。
強く吹いた風によって運ばれてきたのか、新聞紙が一枚私の目の前を飛んで行った。雨に濡れて重いはずの新聞紙があれほど飛ばされたのに、私自身は一切横雨に濡れていないということが不思議で、折れた傘の骨がなおさらおかしく見えた。
新聞紙はすぐそばの地蔵がある小さな小屋のようなところに張り付いた。この付近を通る人はかなり少なく、近所の家も空き家が目立っている。電話番号と居住者募集の文字が散見される家々に囲まれ、ぽつんとある地蔵だった。そもそも現代で地蔵を見つけ手を合わせ、何かを願ったり、そういうことをする人がいるのだろうか。ましてや供え物をわざわざ持ってきて、この踏切の前で地蔵のために腰を曲げる人が、この東京にいるのだろうか。地蔵が突然動き出し、願いを叶えるといった映画だとか、そういうものが流行れば話は別だろうが、最近そういう話は聞かない。
さらにこの地蔵だが、囲まれた小屋が随分古いもので、今にも壊れそうな、腐った匂いを放ちそうなものだった。黒ずんだ木の表面には何年にも渡って雨粒が当たったのだろう。傘は雨が降っていなければ家の中で安静にしているが、この小屋は晴れなら太陽に焼かれる。鳩が糞を落としたり、今日みたいな強風に延々と耐えることもあるだろう。
前にこの地蔵を見たのはいつだろうか。一年前にそこに猫が寝ていたのを見たことがあったような気がする。ここではない地蔵の近くだったかもしれないが、記憶が書き足されていくような感覚でそういうことにした。
この雨の中猫が寝ていることはなく、猫抜きの同じような風景が目の前に再現された。そしてその小屋は人が一人入れるくらいの大きさで、小さい地蔵のためには随分と大きいものであった。私は猫ではないが、雨に濡れることを嫌うヒトだったため、なんとなく地蔵の小屋に入って雨宿りをすることにした。この豪雨は最近多発しているゲリラ豪雨という奴だろう。雷鳴だってもう聞こえない。電車が過ぎていくように東の方角に行ってしまったのだろう。雨雲も遅延して向こう側に行ってしまうだろう。
地蔵はやはり小さく、その首元にかけられた赤い布切れは子供の手袋ぐらいの大きさしかない。その下に置かれた供え物の蜜柑は腐って変色し、晴れた日なら蠅が数匹喜んで集っていそうなものだった。その不気味なまでの色。黴が生えているというより、蜜柑の皮がそのまま劣化し、構成物質が突然変異したような。かろうじて蜜柑らしく思えるのは腐った匂いの中に混じる柑橘系の爽やかな香りを感じ取れるからだ。それも雨に混じる土の匂いに掻き消されそうなほど弱いものだった。しかし、その弱さが際立って私の鼻腔を刺激したのも事実だった。
そのまま雨が小屋の屋根から垂れ落ちる様子をぼおっと眺めていた。閉じた傘の外側についていた雨粒が重力に沿って落下し、傘の石突きのところに水たまりを作っている。そこに迷い込んできたのか、蟻が一匹ぷかぷかと浮かんでいるが、私は見えないふりをしてその蟻をこつこつとつぶした。水に溶けだした蟻の色を知覚することは距離的にも色彩的にも難しかった。
雨は変わらず降っているが、小屋に入る前より勢いが弱まっていた。やはりこの雨はじきに止む。
雨が止んだあと、どうしようか。雨宿り目的なら地蔵の小屋にいても問題なさそうだが、晴れた空の下で、地面に残った雨が蒸発する中で小屋にとどまれば、不審者か、何かと思われても仕方ない。手元に双眼鏡や地図はないから、暇な学生くらいに思われるかもしれないが、やはり住宅街でのその行動は異様に見えるだろう。