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陳腐な恋の物語

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「ね? このあと、暇?」
 ようやく向きを変えることができた私の耳に、私にとっては意外な彼女の言葉が届けられた。言葉の真意を掴みかねていると、今度は彼女の瞳から真っ直ぐな視線が送られてきた。焦った私は思いつきの言葉を搾り出す。
「家に帰ってこの本を読む以外の予定はない」
 先ほど見つけた発売時に買いそびれていた文庫本を本棚から抜き出す。
「じゃあ、これがなくなれば予定もなくなるワケね」
 彼女は私の手から文庫本を奪うと、そのまま素早く『ご会計』と書かれた吊り看板の方向へと消えていった。
 彼女が戻ってくるまでの間、呆気にとられていた私は情けなくもその場を一歩も動けなかったのだ。
「上に新しいお店がオープンしてるの。行ってみない?」
 返事を待つことなく、彼女はエレベーターに向かい歩き出す。
 私は慌ててその背中を追った。
 エレベーターには子連れの女性が乗っていた。小学生以下の女の子だ。ふと盗み見た子供を見る彼女の横顔は、とても優しいものだった。
 視線に気付いたのか、彼女がこちらを向いた。
 私は再び言葉を搾り出す。
「さっきの本はどうするんだ」
 本棚にはもう残っていなかった。発売されたのがかなり昔のことなので、補充されるという保証はどこにもない。
「あとで返してあげるわよ」
 エレベーターが到着した場所はイートフロアだった。ランチタイムを終えたばかりの時間帯で、さすがに利用客の姿はまばらだ。
 私たちはエレベーターホールから一番遠く離れた場所にある店に入った。
 真新しいお店の制服に身を包んだウエイトレスの誘導に従って、入口近くのテーブルに腰を落ち着けた。
「なに頼むの?」
 私にそう訊ねながらも、彼女はメニュー表を離しはしなかった。
「アイスコーヒー」
「そ? じゃ、あたしもそれで」
 注文したのは結局アイスコーヒー二つだけ。
「せっかく新しいお店に来たのにね」
 全くその通りだ、という私の心の呟きを見抜いているかのように、彼女は悪戯に笑っていた。
「……で、どんな話があるの?」
 唐突に投げ掛けられた彼女の言葉は、私自身でさえも気が付いていなかった、奥底に深く沈んだ本心を揺り起こした。
 とっくに整理は付いていると思っていた気持ちが、静かに、しかし力強く動き始めていた。

 ―― 未練
 彼女に対する未練。
 私はその存在を認識せざるを得なくなった。
作品名:陳腐な恋の物語 作家名:村崎右近