陳腐な恋の物語
「髪、切ったんだ?」
駅ビルの本屋で読みかけのシリーズ小説の最新巻を見つけたとき、背後から私に向けて発せられたのであろう女性の声が聞こえてきた。
それは決して知らぬものではなく、心地良さと懐かしさを併せ持つ声だった。
「また変なところで会うな」
私は声の主の顔を脳裏に浮かべつつ、再会の喜びに緩んだ口元を見られぬように然もなんでもないというように取り繕った言葉を肩越しに返す。
「そうね、たしか四度目よね。ここで貴方と会うのは」
彼女は振り向いた私に向かって滑るように歩み寄り、本棚に背を向けた私と正反対を向いたまま横に並んだ。
少し遅れて、ふわり、と彼女が香る。
変わらぬ声、変わらぬ香り。
私たち二人は、数年の間“恋人”という関係だった。しかし私は彼女の香りの正体を知ることはなかった。知りたいと思うことがなかったのだ。タネを知ってしまえば面白味がなくなってしまう手品のような、あるいは現実から目を逸らしたところにある夢や幻想として感じていたからかもしれない。
ただ、“これから先いつまでもそこにあるものだ”と思っていたことだけは間違いない。
そう、私と彼女とは、“かつて恋人だった”のだ。
いまだ横並びのままで、視線は一度も交錯していない。
私は不自然な沈黙を嫌って口を開いた。
「こんなところで何してるんだ?」
「本屋に家電を買いに来る人はいないでしょう?」
本を買いに来た。当然のことだ。
『本屋にケーキを買いに来る奴は滅多にいない』
これは彼女と“恋人”になる前、初めてここで出会ったときに私が彼女に向けて発した言葉だ。
友人の友人という遠い関係だった私たち二人は、ここでの偶然の遭遇をきっかけとして急速に親しくなり、“恋人”という関係に行き着いたのだ。
その頃の甘い想いが心の中を広がり始め、私はその侵食に抵抗することもなく、記憶の奥にそっと保管されている“陳腐な恋の物語”の表紙をめくった。
駅ビルの本屋で読みかけのシリーズ小説の最新巻を見つけたとき、背後から私に向けて発せられたのであろう女性の声が聞こえてきた。
それは決して知らぬものではなく、心地良さと懐かしさを併せ持つ声だった。
「また変なところで会うな」
私は声の主の顔を脳裏に浮かべつつ、再会の喜びに緩んだ口元を見られぬように然もなんでもないというように取り繕った言葉を肩越しに返す。
「そうね、たしか四度目よね。ここで貴方と会うのは」
彼女は振り向いた私に向かって滑るように歩み寄り、本棚に背を向けた私と正反対を向いたまま横に並んだ。
少し遅れて、ふわり、と彼女が香る。
変わらぬ声、変わらぬ香り。
私たち二人は、数年の間“恋人”という関係だった。しかし私は彼女の香りの正体を知ることはなかった。知りたいと思うことがなかったのだ。タネを知ってしまえば面白味がなくなってしまう手品のような、あるいは現実から目を逸らしたところにある夢や幻想として感じていたからかもしれない。
ただ、“これから先いつまでもそこにあるものだ”と思っていたことだけは間違いない。
そう、私と彼女とは、“かつて恋人だった”のだ。
いまだ横並びのままで、視線は一度も交錯していない。
私は不自然な沈黙を嫌って口を開いた。
「こんなところで何してるんだ?」
「本屋に家電を買いに来る人はいないでしょう?」
本を買いに来た。当然のことだ。
『本屋にケーキを買いに来る奴は滅多にいない』
これは彼女と“恋人”になる前、初めてここで出会ったときに私が彼女に向けて発した言葉だ。
友人の友人という遠い関係だった私たち二人は、ここでの偶然の遭遇をきっかけとして急速に親しくなり、“恋人”という関係に行き着いたのだ。
その頃の甘い想いが心の中を広がり始め、私はその侵食に抵抗することもなく、記憶の奥にそっと保管されている“陳腐な恋の物語”の表紙をめくった。