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羽虫

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 翌朝、目覚めて夏用の薄い掛布団を捲り、川に行った服装でないことに気づく。寝かせるときに着替えさせられたのか、それとも布団を敷く前、川遊びの土汚れが目について着替えさせられたのか。畳に正坐して布団を箪笥のある方から廊下側へ、皺をのばしながら念入りに捜したが一匹の死骸も見当たらない。盥が置きっぱなしにしてあって、氷はとうに融けている。
「起きた?」襖を開いて入ってきた母がすぐ脇に膝を突く。「どうしたの、足揃えて坐ったりして。具合どんな感じ?」
 心持曲げた背中を母の左手がゆっくりと撫ぜている。幼い者の体内に潜む病の兆しを宥めるように。
「寝たらなおった」
 顔を覗き込まれるのが嫌で、布団のよじれに目を据えたままそっけなく呟く。
 伸びてきた髪の下に手を入れ、俯けた額に重ねる。掌に集めた感覚を測るみたいに宙へ向けていた目を戻す。部屋の静けさが苦しくて母の顔を見上げる。やわらいだ視線に捉えられ、見る間に安堵の表情がひろがっていく。
「熱はもうないみたい。よかった」
 蝉が鳴きしきっている。重なり合う蝉の声の間へ、母は体の顫えが溶け出したような息を抜く。
「本当によかった」
 目尻に溜まった涙がこぼれて?にゆるやかな曲線を描く。しばらく顔を見つめていた母はいきなり体を引き寄せる。温かい?を伝う涙が唇に触れて塩辛い味がする。抱き竦められた母の体から、なぜかひんやりとした冷たい感覚が伝わってくる。
「まだ大丈夫だよ。まだ死にはしないから」
 実際に口にしてはいない。心の内で答えていただけだ。声に出さなかったとはいえそんな答え方をしたのは、腕の中で、よかったと繰り返す譫言みたいな声を聞きながら、母と二人して海辺の街へ出た日のことを思い出していたからではなかったか。
 どういう用事があったのかは覚えていない。駅のプラットホームで南へと下る列車を母と一緒に待っている、ただそれだけの記憶。ホームに他の人がいたかどうかも覚えていない。季節も判然としないが、昼下がりの真っ白い陽射しと気怠い空気に包まれていたことは確かだ。
 日影に休まないでホームの先端まで歩いていったのはなぜだったのだろう。暑さは感じられない。陽の光の白さと、ホームに映ったくっきりと黒く伸びたふたつの影が見える。母は帽子をかぶっていたかもしれない。手は母の右手にしっかりと握られている。山間の駅の狭いホームの先端で、白いペンキで書き記された点線のすぐ内側に立っている。母と子を見ている者は誰もいない。
 どんなことを話したのか。それもまったく覚えていない。思い出そうとしても何も蘇っては来ない。あの科白以外は。早く来すぎたのかもしれない。あの日ホームに他の人がいなかったのだとしたら、あるいはそういう理由だったのか。
「わたしね、ふと飛び込みたくなるときがある」
 列車が轟音とともに風を巻き起こして通過する。ホームに立つ体が吹き抜ける風に頼りなく揺らぐ。車輛の響きが聞こえなくなり、西から張り出してくる山の麓を廻り込んで列車の後尾が消えていく。辺りが列車の通る前の静寂に戻る。街まで運んでくれる列車が速度を落として滑り込んでくるまで、陽に照らされた白いホームに伸びる影を見詰めて時間を埋める気持になった頃、まったく唐突にそう言う。十にもならない子供には、言ってもわからないだろうと気が緩んだのか。ひとりでに口にして返事を求めるようでもない。独り言なら求める答えなど初めからあるはずはないけれども。
 見上げた母の顔も線路の向かいに聳つ山の緑から動いていない。声を出しなどしなかったように前を向いている。もちろん、傍らの手を握っている小さな子供に、先程呟いた言葉の意味を取り成そうともしない。本当に母がそんなことを呟いたのだろうか。まっすぐ
前を向いたままの顔が思い浮かぶ。その度に遠い破片となった記憶を疑ってみたくなる。どういう訳かは知らないが、心の中で偽りに作り上げた記憶ではないか。長い間こうするべきだと勝手に忖度し温めていた願望が、母の肉声を纏って過去の記憶に固着したのではないか、と。しかしその時に聞いた母の声には、どんな時でも穏やかだった母の声らしくない響きがある。乾いていて、無造作に放り投げられたような声。妙な不安がこびり付いている。
 母の声を聞き、口に出された言葉の意味がわかった時の、ぞっと冷たい痺れが走り抜けるような感覚はとても作り出せるものではない。こちらから訊けることでもない。日が経てばなおさら、記憶の内の疑惑がどれほど深まっていても、改めて母にそんなことを呟いたのかどうか訊くのは殊更な煩わしさを感じる。
 母に尋ねられないまま、あの頃には想像もできなかった長い年月が流れている。父は四十の遥か手前で早世している。一時身を寄せられるような近い親戚筋もなく、古い家に子供ひとりと残された母はどれほど辛い生活を送らなければならなかったのだろう。どういう思いがその当時母の内にあったのか、今でもわからないし訊こうとも思わない。もっともどれだけ無神経になれるとしても、もう母に訊くことはできない。たとえまだ生きていたとしても生涯訊くことはなかっただろう。
 道に倒れていたのは街へ下ったすぐ後のことだったのではないだろうか。はっきりとは覚えていない。でもあんなことを言った後、子供が道にうずくまっていたものだから、母は自分の言葉が誘い水となって子供の体に異変が起きた、そんなふうに思ったからこそ、翌日無事だった小さな体を抱き締めて放さず、涙を流したのではなかったか。そうではないかもしれない。しかしもう確かめる術はない。
「大丈夫だよ。まだ死にはしないから」
 思い返せばそんな大袈裟な答えが心の内に出てきたのは、やはり並んで立っていたホームでの呟きが引っ掛かっていたからかもしれない。それに死にはしなかったが、大丈夫ではない。なおったどころではない。あの日以来、何かが変わってしまっている。
 山裾を削って建てた家の灯りを認め、駆け出そうとして顔を撫ぜられる。蜘蛛の巣をかぶったときに似た微かな感覚だがふんわりしたくすぐったさはない。細かな塊が次々顔にぶつかり撫ぜていく。病で褪せてうす黄色くなった稲葉のような色が目の内に溢れている。視界を覆う色を見極めようとして立ち止まる。すっかり明るみの落ちた空へ目を細める。淡い黄色をした羽虫の群れに取り囲まれているのに気づく。纏わってくる羽虫を逐ってよろめくうちに、はっきり見えていた家の灯りの方向もわからなくなっている。
 電灯から降りてくる光の内外に無数の淡い色彩が舞っている。ほんの僅かな大きさの翅は夜の暗さを溶かし込んで羽撃く。ぼうっと淡い黄色に滲んだ体が顔にぶつかりながら飛び交う。鼻孔に入り込む。吹き飛ばそうとして勢いよく鼻から空気を出す。お構いなしに一層顔に向かって纏わり付いてくる。目を閉じ、口から吸う息を細く絞り、耳は両手できつく覆う。二本の足で立っている。そんな当たり前のことが堪えられなくなって膝を突く。背中を丸めてうずくまる。アスファルトに額をつける。
作品名:羽虫 作家名:那村洵吾