羽虫
まるで祈っているみたいじゃないか。誰かに許しを求めるように。数歩先にある電灯の明かりが照らしている路上に、うずくまりこんだ小さな体が仄かに浮き出してくる。こんな丸まった弱々しい姿を母は見つけたのだろうか。担がれて、坂を上りながら名前を呼びかけられたのも覚えている。布団に寝かされたのも、氷水で冷やされた濡れタオルを額に乗せてくれたのも覚えている。目はすでに開いている。どれほど母に問いかけられても、ただ依怙地に天井の木目を目に晒して黙っている。舌を動かして乾いた口腔に集めた唾を嚥み下す。何度でも繰り返す。
死にはしない。でも飛び込んできた羽虫が口の中にいる。喉の辺りに異和感が留まっている。いつも何かが閊えている。わずかながらそんな感じがある。何度唾を嚥んでも、水を一息に呑み込んでも変わらない。いつまで経ってもあの日より以前の感じに戻ってはくれない。
濃く雲に塗られていた残照は暗い翳りに変わっている。雲間に見え隠れする月が蒼い光で周囲の風景を領している。鉄の棒で作られた車止めを抜けて舗装された道に入る。すぐ右手には背の低い古びた長屋が奥へ向かって伸び、小さな窓を通して黄色い光が洩れ出ている。傍らに一本だけ取り残されたみたいに立つ木の下からは、左の脇道に折れて程近い所に、鉄鋲を打ちつけ厳めしい門を構えた旧家の仄明りが見える。
細道の脇から斜に構えた旧家の門前を通り過ぎる。細い道がさらに細くなり、車の通る幅さえもなくなって緩やかに下っていく。高いブロック塀が見えて行き止りになる。入る角を間違えたか。そう思いながら近づくと、突き当りから狭い空間がいきなり直角に開いているのを知る。蜘蛛の巣の張ったブロック塀の隅に電灯が立っていて、塀の向こうから道の上に覆い被さって茂る木々の広い葉を照らしている。その細長い黄色っぽい光に羽虫の群れが近づいては弾き飛ばされたように離れ、また近づいていく。飽きることなどないように求め続ける。
あの日から数えて三十年近くが経つ。小さい体を抱き締め泣いてくれた母もすでにこの世にはいない。昼下がりの閑散としたホームで列車を待ちながらあの声を聞き、ほんの少し握っていた手を弛めはしなかっただろうか。
まだ異和は消えていない。