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羽虫

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夕暮れた道を駅へと向かう。夏至は数日も前に過ぎたが、七時をまわっても空はまだ十分に明るい。陽はすでに見えず、西方に広がる雲の表に淡い残映が色を曳いている。車の往来が喧しい国道を折れて田圃に両側を挟みこまれた細い道に入る。苗床から水を張った田へ植えられた若い稲の列が左右に少しずつふれながら続いている。
 国道から逸れたため陽の残りに背を炙らせる形になる。目の前の道には薄い影もない。粗くコンクリートで固められている。元は畦道にすぎなかったものが田植機など機械の手を借りるようになって平坦な道が作られたものなのだろう。わりに大きな木が蔭を作っている田圃の際まで行くと鉄の棒で車止めがしてある。その向こうはアスファルトで舗装されている。車一台通ればいっぱいになってしまう狭い道が幾重にも枝分かれして、焼杉の塀に囲まれた低い家並みの連なる卑湿な土地をうねうねと縫って進む。駅から国道へ下る道沿いに構えた酔客相手の店の灯りが見えて、ようやく道幅も広がり息がつける心地になる。
 帰りを待つ者もいない。明かりの消えた部屋に戻り、朝まで正体もなく眠る。それだけの身だ。今夜はあの店の灯りが導くままに暖簾を潜ってしたたかに飲んでみようか。そんなことを考えながら、コンクリートの白い道をただひと筋の標として辿っているような気になって歩くうちに、なにかに撫ぜられて顔を上げる。暮れ残りの最後、濃い紅色を溜めた雲は黒く濁っていて、不意に涌き出した羽虫の群れの中にいる。自然に息を止めて口も開かないようにしている。立ち止まってはいけない。あの時みたいに。顔のすぐ前で掌をひらひらと、しきりに拒むみたいに振りながら足を速める。
 
 すでに暗くなっている。陽は山裾に沈みきり、空に残っていた赤い色も随分と前に退いている。月の冴えた光が青白く周囲に染み通って、日中の爽やかだった木々の葉も黒く恐ろしげに見える。
 意地になっていたのかもしれない。友達がひとり、またひとりと家へ帰っていく。陽の色が濃くなり始めてからも一緒に居残っていたふたりの友達が帰ろうと誘ってくる。答えるかわりに水際に足を浸す。浅瀬に濡れた顔を見せている石の上を渡り、草の覆いかぶさった川の淀みに網を入れる。もう声もかけずに連れ立って、角の取れた石を踏んで遠ざかる足音を背中に聞く。
 何度引き上げても網の中には何もいない。先ほど見上げた雲に残っていた濃い紅もいつの間にか失せている。振り返ると、川原一面が影に包まれたみたいに薄青い。谷を覆う木々の葉が、陽が沈んで熱を奪われた風に吹かれてなっている。陽の高いうち煩いほど鳴きしきっていた蝉の声も聞こえない。乾いた葉擦れが、繰り返す瀬音のように風に従って重なり合い、低い川原へ押し寄せてくる。
 石を洗う水の音も友達と一緒に聞いていたものとは違う。軽やかで気持のいいせせらぎが、今では容赦なく川の中にある石を叩き、穿つものとして谷底に響き籠もる。このまま瀬音に聾されているとこの身体がいつしかひとつの石塊に変わって、この谷の中で流れる水の音を果てしもなく聞かされることになりはしないか、そんな恐れに囚われる。水の冷たさが今さら踝まで浸かった脚を這い上がり、肋の浮いたうすい胸の内っかわから鈍い痺れが全身に拡がってくる。
 水に浸かっている足の甲は生白く、はだしになった足が踏む石それぞれの輪郭は消えて濃淡を持った黒いひろがりになっている。暗く透んだ水に細い足首を締め付けられて、川面から抜け出せなくなってしまいそうだ。踝の辺りを下ってくる水が高さを変えては通り過ぎる。
 足の裏に力を入れ、吸いついてくるような水底の石を踏む。執拗に絡みつき、川の中に留め置こうとする重い水の流れを蹴り上げ、川原へ向かって走る。跳ね上がったしぶきが月に照らされて光る。水際に脱ぎ捨てていた靴を濡れた素足につっかける。よろける足取りで蒼く冴えた川原を渡り、旧の街道に出る草の盛った坂を登る。
 靴の中に入れていた靴下の片方がなくなっている。歩いてくるうち川原に落としてきたのかもしれないが戻る気にはなれない。ガードレールに寄りかかって足についた砂利を靴下で丁寧に払う。すでに網も手の内にはなくて、見下ろした川原は一様に暗い色で塗り潰されている。
 ズボンのポケットに靴下をふたつに畳んで突っ込む。素足のままで靴を履く。水気はほとんど拭き取ったはずだが、足の皮膚と靴の内側が直接触れるのはやはり気持が悪い。踵が歩くたびに擦れて次第に痛みをもってくる。右の踵がひどい。靴下を右足に履き、左は爪先を強く押し込んで踵を靴に触れないようにし、靴紐をきつく締めなおして固定する。
 前より歩きにくいが痛みはかなりやわらいでいる。舗装された道沿いに電灯が点り、川の流れに付き従って屈曲した光の列が続く。もういくらも行かないうちに、右手の山裾へ緩やかに伸びる道の分かれ目が見えるはずだ。家への道の入口を頭の中で手繰りながら、電灯の柱をふたつ、みっつと数える。急なカーヴを抜けて道よりすこし上った所に家の灯りが見える。踵の痛みをこらえて駆け出そうとした時、音もなく視界がうすい黄緑みたいな、病で色褪せた稲の葉みたいな色彩で溢れて、はっきりそこにあった家の灯りがいきなり見えなくなる。

「大丈夫?」
 目を開くと母が顔を覗いている。額のタオルを取って、盥に張った氷水に浸して絞る。水に浮かんだ氷がぶつかってカラカラと鳴る。母の声ははっきりと聞こえるが何も答えられない。タオルの端を揃えて折り、額にのせる。一筋の水がこぼれて頸を伝う。
「どうしてあんなところで……」
 懐中電灯を持って母が旧街道まで降りてきたとき、すでに電灯の白い光の下でうずくまっていたという。車が来ないのを確かめてから慌てて走り寄ると、脚を胸に引きつけ、何も聞きたくないというふうに両手でぴったりと耳を塞いで俯せになっている。何を訊いても答えない。口から細く息を抜いている。
 動こうとしない子供をようよう起こして背負おうとするのに、どうしても耳から手を離そうとしない。仕方なく腿の後ろを右腕で押さえて腰を肩に担ぐ。だらりと垂れた胴体が背中で揺れる。緩い坂を一歩一歩踏みしめて上る。
 家の中へ連れてきて布団を敷く。視線を移すと寝転がされた畳の上でやっと耳を塞ぐのをやめて腕を胴に沿わせて伸ばし、隙間なく閉じていた指も掌を天井に向けて開いている。時折ごくりと唾を嚥み込む音がして、まだ張り出してくる途中の喉仏がゆったりと隆起する。目を閉じる。カラカラと氷の鳴る音がして冷えたタオルが額の上に置かれる。
「明日になってもよくならなかったら病院へ行こう」
 呻くような声で頷いて顔を背ける。母は見なかったのだ。それ以上答えることもない。一日外で遊んだ疲れと、過ぎ去った恐れと、布団の中に身体を横たえている安逸とが溶け合う。
「あれはどこかへ行ってしまった。母はあれに遇わなかった。母は何も見なかったのだ」
 消えそうになる意識の片隅で悔やむみたいに繰り返す。しばらくして襖の向こうから、母を相手に太いぼそぼそと話す、いつもの聞き取りにくい声が寝床の中まで届いてくる。
作品名:羽虫 作家名:那村洵吾