未生怨(みしょうおん 中巻
「さっき帰っていらしたけど、ご飯要らないって部屋に行かれたよ」気も漫ろにビールの栓を開けると、パタパタと忙しげにスリッパの音を立て、居間に運んでいった。
それでは風邪薬も飲んでないなと、食の細い祈之を思いやり、外に出て二、三歩歩き掛けながら、灯りの点いた祈之の部屋を見上げた。
、北風に追いやられるように小屋に戻り、ストーブに火を点けると、どこかで待ってたように後ろを気にしながら祈之が音を立てずに入ってきた。
「誰かに見られたら駄目なんだよ…そんな恰好でふらふらして…薬飲んだのか?」
祈り之はそのことに返事をせず、板壁を摩りながら周りを見回した。祈之の買ってきた正夫の故郷のポスターがまだ貼ってあるのを確認すると祈之は嬉しそうに振り返り「絶対まーちゃんはこれを毎日見てると思ってた…僕たちの絶対消す事の出来ない場所だもの」
そして愛しそうに病院と滝と正夫の家のある山道を指で擦った。
部屋はまだ温まらず、二人はくっ付くようにストーブに手を翳した。正夫は祈之を抱え込むように額に手を当てるとやはり熱かった。
「これ…僕が遣ったんだよね」正夫の手首の甲についた大きなケロイドの傷を指で擦った…。
裏山で危ないからと制止する正夫の手を逃れ、ふざけて木に登り、細い木の枝にぶら下がった。そしてその重さに耐えられず、木がバリッと音を立てると同時に枝と一緒に祈之が落ちてきて、落下する瞬間、正夫は駈け寄り祈之を身体で受け止め、折れた枝の先から祈之を守るように抱え転がって、正夫の手にその枝が突き刺さって、何十針も縫う程の大怪我となった。
祈之が七歳頃の事で、何でも正夫じゃ無くては為らず傷口が塞がらないまま祈之の面倒を見続け、正夫の手の包帯が何度も赤く血に染まっていたのを、祈之は覚えていた。
何度も傷が破け、大きなケロイドの後になってしまった。
目の上の傷も、祈之を苛める上級生から、祈之を守り戦った傷跡である。祈之は一つ一つ手で擦った…。
「まーちゃん…」祈之は正夫に向き直ると
「あの、切り株まだあるかな…あの滝凄かったよね、遠かったね山の奥の奥にあるんだよね…」
母と外出の少なかった祈之は、福井で正夫と過したあの夏の思い出を掛け替えの無いものとし、事在るごとに話題にし懐かしがった。今もまた、遠い眼差しで二人だけで寄り添うように過した日々を口にした…。
あの頃…祈之だけが全てだった。何にも替えがたく、五感の苦しみを超え、祈之を守る事に何の苦痛も厭わなかった。
それは自分の腹から命分け与えた、無償の愛に似てまさしく母性愛に類似するものだったかも知れない。
「あの時初めてまーちゃんとキスしたんだよね…」
「噛み付いたんだろう」正夫が笑うと
「違うよ…」と祈之は真顔になり
「二人は結婚するって約束したよね…」
「そうだな…」と正夫が頷いた時、カサカサと早足で落ち葉を踏んで近付いて来る足音を聞いた。
「まさちゃん、寝た?ちょっと」
それは婆やの声で、正夫は慌てて祈之をアコーディオンカーテンの裏に隠すと戸口を開けた
「奥様が急にお帰りになったんだよ、二十人もの人連れて。すまないけど、テーブルのセットするの手伝って!寝てるとこ悪いね」
「あっ…すぐ行きます」と返事をして母親の帰宅で不安そうに見つめる祈之に
「何時も祈の側にいるからね、淋しがらないんだよ。心は一緒だよ。僕が出て行ったら、急いで部屋に戻って…」
正夫は行きかけて、足を止めた。畏れ立ち竦む博之の頬を両手で挟んでしっかり口づけると抱きしめ「これ結婚の印…結婚しような…時を待とう…出来るね?祈…」と白い歯を見せた。頷く祈之を残し慌ただしく母屋に向かった。
ღ❤ღ
作品名:未生怨(みしょうおん 中巻 作家名:のしろ雅子