未生怨(みしょうおん 中巻
「………」相手は無言である。
「…何処にいるの?…すぐに行くよ…何処?」
「逗子…マリーナ…」
「すぐ行くから、そこにいて…すぐ行くよ」
正夫はコートを羽織ると、一目散に祈之の元へ急いだ。
凍えるような海風に吹き晒され、岸壁に寄りかかるようにポツンと立ち竦む祈之の姿が見えた。
「祈…」正夫は切なさを胸に呼びかけた。
祈之は肩をピクッと震わせ、本当に来たんだ…そんな表情で振り返り、正夫を見つめた。
正夫は迷わず近付くと肩に手をかけ、大きな米軍払い下げの軍服が萎むように悲しいほどひ弱な細い紀之の身体を抱きよせた。
「こんな薄い上着一枚で吹きっ晒されて風邪引いたらどうするんだ…」正夫はなおいっそう搔き抱いた。紀之は求めても求めても拒絶され続けて近寄る事も出来なかった正夫にしがみ付いて涙を溢れあがらせた
「何故…ママに負けたの…」祈之は呻くように呟いた。
「易々とママの言いなりになって…どんなことがあったって僕たちは離れなかったのに…僕は…まーちゃんが居なければ…まーちゃんが居なければ…この世に生きてる意味なんかないんだよ!」
「負けたんじゃないよ…ママの言う事が最もだと思ったんだよ…祈も見ただろ?…貧乏な家に生まれて、学校も行って無い、教養も無ければ、金も無い、一生何処かで汗と泥に塗れて働いていくしか無いんだよ僕は…祈の家の使用人なんだよ。身分が違うんだ…祈を幸せになんてできない…」
「幸せ?幸せって何?まーちゃんに代わるものなんか無い、三つの時からずーっと僕たちは幸せだった。ママの一言で変わった。まーちゃんは負けたんだ!ママなんかに負けないで!…いつも側に居るって言ったくせに…まーちゃんが変わったんだよ」
祈之は亜子に易々籠絡された正夫を詰《なじ》った。
「いたんだよ…側にいたじゃないか、祈を見届けたいから、やめなかったんだよ 祈と距離を置くことが、祈の側にいられることだったんだよ」
「話もしなかったじゃないか!」
「話をしてたら、あそこにはいられなかったよ…祈の側にはいられなかったよ…話をしなかったから側にいられたんだよ、側にいたんだよ…ずっと…いたんだよ、でも、僕はもう、祈に何もしてやれないと思ったんだ…祈に、幸せになって欲しかったんだ…」
正夫は腕を緩めると紀之を見つめ
「でも、とうとう来てしまったよ…祈に会いたくて来てしまった…」
呻くようにしがみ付く祈之を愛おしそうに撫でた。
紀之を胸の中から離すとコートを脱いで祈之に着せ肩を抱いて頬ずりすると、船に向かって歩き出した。
「さあ…どこまで行こうか祈の行きたいところまで行くよ…」
何処まで行こう、行くとこまで行こう…それは船の行く先だったのか、自分達の行く先だったのか、正夫の覚悟が感じられた。
もはや空は真っ赤に燃えるような朱に染まっていた。
そこにいる人々はどの顔もロマンティックで、岸壁に寄り添う恋人たちは、寄り添ってその破滅にも似た西の彼方を見つめた。日没寸前の燃え上がるような夕陽の中に、船は異次元を彷徨うように漂っていた。
祈之は正夫のその大きな胸の中に顔を押し付けると、顔を離し「あ~懐かしい日向と枯れ草の匂いだ…まーちゃんの匂い…」と乾いた声で笑った。それは二人が信頼し合い、見つめ合った頃の懐かしい匂いだった。
二人の愛は行く先知れず先の見えないまま走り出していた。
「わあー凄い!真っ赤だ。まーちゃんもっと行こう。夕陽の中まで行ってみようよ」
祈之はその瞳をきらりと輝かせて叫んだ。絶望に打ち沈んでいた祈之が正夫の腕の中で、愛らしさの片鱗を取り戻していた。
夕映えの空に幽玄なる輝きを見せ、艶かしく緋の帯を広げ神の姿にも似て、入日の後光の中を二人の顔を切ない程の朱さに染め、船は突き進んだ。冬の夕暮れは、その悩ましいほどの朱さを引き摺り、紫紺の闇へと早回しの時計のような変幻を見せる。
二人が横須賀線に乗り帰途に着いた時は、陽はとっぷりと暮れていた。
電車の中で祈之は激しくせき込んだ
正夫は祈之の顔を抱きこみ額に手をやると微かに熱っぽく、
「祈、少し熱い…あんな岸壁にいるからだよ 夜熱上げるんじゃないか、風邪薬飲まないと駄目だよ」と案じた。
祈之はそんな事に大した興味を示さず、曖昧に首を振り
「家に帰りたくない…。何か嫌な事が起きる感じがする…」祈之は何かに怯えるように帰るのを恐れた。
「まーちゃんち、ねえまーちゃんちで二人で暮らそうよ、帰ったら悪い事が起きる」
「今はまだ無理だよ。会えなくなる事なんて無いよ。同じ家の中で暮らしているんだから…ずーっと永遠に祈の側にいるよ。もう離れる事は無いよ、大丈夫だよ」
駅に着いても「あの人がきっと何かをするよ…」と不安げな祈之を宥《ナダ》めて下ろし、数人の乗客をやり過ごすと、ホームを歩きながら祈之を抱き寄せ
「二人の仲を秘密にして時を待とう」と説得した。
亜子に知れたらどんな形で二人を引き離すか、正夫もその危惧は充分感じていた。
祈之は正夫の胸に顔を押し付けて暫く無言であった。
「今日、一緒に帰るのは拙いから、一足先に祈は行きな…風邪薬、婆やさんから貰って飲むんだよ」
正夫は祈之に裏口に着いたら外の植え込みにコートを置いておくように言い中まで絶対に着て入っちゃ駄目だと言い聞かせた
祈之は正夫に背中を向けたがすぐに向き直り
「まーちゃん、祈は、祈は何が起きてもまーちゃんと一緒だよ」正夫が大きく頷くと安堵した表情を浮かべ…「そしたら…」と何か言いかけ、口をむっと結び、正夫を気にして何度も振り向いて、それでも足早に線路沿いの道を歩いて行った。
ホームのベンチで時間を潰した正夫は、二十分ほど祈之に遅れて裏木戸に着くと、約束通り隠すように置いてあるコートを手に取り、台所の入り口に顔を出した。
居間で常連の客達の甲高い声が聞こえていた。
「そこにご飯用意してあるよ」婆やは台所と居間を忙しく行き来しながら、盆の上に乗った冷めかかったカレーライスと鳥の唐揚げを指差した。
正夫は盆を持ち、小屋に戻りながら祈之の部屋を見上げると、灯りが点り祈之の影らしい雰囲気が感じられた。
表玄関に近い亜子の部屋にチラッと視線を投げた。亜子は正月を終え、自分の誘惑に乗らない正夫に柳眉逆立てて怒って以来、西麻布のマンションに戻ったまま一度も帰ってきていなかった。亜子が鎌倉にいない限り事は起こらない、しかし祈之との事は誰にも悟られてはならなかった、どんなルートからも亜子の耳には入っては為らなかった。
正夫は暗い電灯の下、うっすらと温もりの残ったカレーを口に運びながら、祈之を思った。
祈之の手を引いて何処まで行けるか…祈之を守り、何を叶えてやれるのか…見えぬ不安に心彷徨わせながら想いはそれを超え、その儚さをじっと抱き締めた。
正夫は汚れた食器を洗いながら、8時を回る台所の時計を見て二階に上がったままの祈之が気に掛かった。
「坊っちやん、ご飯終わりました?」少し後ろめたくはあったが聞いてみた。
婆やは何の頓着も無く、それより客の用事に追われ
作品名:未生怨(みしょうおん 中巻 作家名:のしろ雅子