豆腐男
事務所への行き場を閉ざされたカスミは脱兎のごとく瞬発し、今度は外へ逃げようとするが。
豆腐男は行く手をふさぐように回り込み、カスミに逃げ道をゆずらなかった。
そして、両手に持った豆腐を突きつけるのだ。
カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
「引き取れよ。返品だぞ」
カスミははじかれたように後ずさりした。
豆腐男はにじり寄ってくる。
「苦労して持ってきたんだぞ。拒むなよ」
カスミは背を向けて、店内のほうへ逃げた。
「なんだ、その態度は?」
男はすかさず背後から、豆腐を投げつける。
飛んできた豆腐のパックがカスミの肩ごしに前方の床に落下して砕け、恐るべき中身が四散した。
「受け取らなくても、置いてくからな」
男は投げた。
また投げた。
スーツケースの中から無尽蔵に腐った豆腐を取り出しては投げているかのようだ。
あたりかまわず、無計画に投げまくるのではない。カスミのいるところを狙うようにしてだ。
「豆腐を返すぞ!」
べちゃっ! べちゃっ! どろどろどろ……。
「きゃーーっ!」
豆腐の容器が前途で破砕するたびに、カスミは飛び上がった。
見るのも嫌だし、飛沫がかかるだけでも怖気をふるう。
踏まないよう、逃げ道を変える。
「豆腐を返してやる。受け取れ」
「きゃーーっ! きゃーーっ!」
豆腐男はスーツケースを引きずりながら、追ってくる。
「豆腐だ、豆腐。豆腐を……」
「やめてーーっ!」
「なぜ逃げるんだ。引き取れよ。店の仕事だろ」
店も仕事もなかった。
かくなるうえは、逃げる以外にない。
豆腐男はさらにあとから追いすがる。
「ほら。豆腐だよ」
平静な顔、きびきびした足取りでどこまでも追いかけてまわる男。
なかば錯乱しつつ逃げ惑うカスミに、腐乱しきった豆腐を投げつけながら。
豆腐を避ける。
びしゃっ! びしゃっ! うじょうじょうじょ……。
踏まないよう逃げる。
男は店内のつくりをよく知っていた。
「豆腐弾」でカスミの退路を阻み、出入り口はもちろん事務所にもトイレにも逃げ込ませはしなかった。
男はこれほどの怪腕があったのかと驚かされる力みようで重量のあるスーツケースを引きながら陳列棚の間を縫うように追ってきて、恐慌のうちに通路でうろつき怯えるカスミに向かってなおも豆腐を投げつける。
げろげろに腐敗し、肥えた蛆が湧きさわいでいる豆腐を。
カスミは逃げも隠れもできぬまま、店の中をしだいに隅のほうへと追い込まれていく。
だが、外に逃げたとしてどうだろう。
コンビニの背後は山地で、勾配のきつい山道を追われながら走っても無人のお寺しかなかったし、正面の住宅地に通じる橋はおりからの台風で川が増水し水没状態、そこからは行き止まりだ。
店長も帰ってこられない。
警察を呼べたとしてもすぐには駆けつけられまい。
ヘコムの警備システムもまるで役に立たない。
今の彼女はまったく孤立無援の状態にあったのだ。
かくして。壁際に追い詰められたカスミには、まったく逃げ場がなくなった。
絶体絶命だ。
「はあ、はあ、はあ……」
「これで、買った豆腐は全部、返品してやった」
もはやカスミは泣きじゃくるようだった。へなへなとへたり込むしかない。
「あ、あの……お代金は全額、お返ししますから……どうか……どうか、お引取りを……」
「金? いらんよ」
あれだけ動きまわったのに、豆腐男の呼吸はたいして荒れていなかった。態度はあくまで平静だ。
「代わりに、肉を持って帰るぞ」
肉?
カスミは恐怖に顔面を引きつらせながらも、きょとんとなるほかなかった。
「俺はカバンにいっぱい豆腐を持ってきた。今度は、カバンいっぱい肉をもらって帰る」
そんなこと言われても……。この店では肉製品といえば、ウインナやジャーキーくらいしかおいていない。
「あの……うちでは、お肉は……」
「いいから、肉をよこせ」
まったく感情を外にあらわさない顔で、豆腐男が迫る。
「ここにあるじゃないか。大きな、生きてる肉が」
生きてる肉って……。
「おまえだよ。来るんだ!」
ついに豆腐男は本性をあらわにし、カスミにつかみかかってきた。
「ぎゃーーーーっ!」
カスミにできたのはジタバタ暴れ、相手が目的を遂げるのを遅らせることだけである。
「おまえを、この中に詰めて帰る!」
力ずくで思うがままにされた状態のカスミはとうとう、スーツケースに! あのスーツケースの中に! 頭から突っ込まれた!
「ぐえっ! ぐえーーっ!」
かくなるうえは、嘔吐とも悲鳴ともつかない、しぼり出すような絶叫として恐慌ぶりを表現するばかり。
そのとき。
異変が「ドラッグ24」を襲った。
豆腐男ですら予想できなかったこと。
増水した川からあふれ出した水が濁流となって、洪水のように店めがけて押し寄せてきたのだ。
建物を呑み尽くすほど大量の水が、ガラスの壁面をぶち破り、ドワーーーッとなだれ込んだ。
一瞬のち、停電となり照明がすべて消えた。
浸入した水の流れは反対側のガラス壁をも押し割るほどの威力を示し、店内を急流のようになって通り抜けていく。
暴力的な水圧に、重くて頑丈な陳列棚がまるでドミノのようにはじかれ、押し流され、食品や雑貨類を大量に撒き散らしながら激しくぶつかり合った。
豆腐男がこの期におよんで、どんな反応を示したかはわからない。
声すら発した気配がなかった。
カスミはといえば。ほぼ全身をあのケースに収納されるという恐怖の絶頂にあったのだから、何が起きたかどころではなかった。
とはいえ。豆腐男の身をひとたまりもなく吹っ飛ばして押し流したに違いない溢水の打撃を、同じ場にいながらカスミのほうは被ることから免れていた。
幸か不幸か、体を逆さまに詰め込まれた堅固な造りのスーツケースが防具となって、水流による強烈な破壊力を緩衝する役目を果たしたのだ。
ケースはびくともせずに、カスミの体をくわえた格好でどんぶらこと浮かび上がった。
しかしそのままでは、濁流に流され、反対側の出口から持っていかれてしまう。
僥倖にもスーツケースは、水流で押しやられた陳列棚が寄り合ってバリケード状態になった上にポートが座礁するように乗り上げ、横倒しになった。
「グエ! グエッ!」
足場の感触を得るや無我夢中で蛆虫地獄から這い出た彼女は、見るもおぞましいスーツケーツを蹴り飛ばすと、自分のおかれた状況をもはや驚きとも感じず――豆腐男に誘拐される以上の驚きがあろうか――水流の激しさに必死で抗いながら、半端な将棋倒しのように列をなして傾き、積み重なった商品棚の骨組みに華奢な両手と両足で懸命にしがみつく。
髪も着衣も濡れそぼり、あのカスミがと思うほどの凄い形相で踏ん張り続けた。
台風が荒れ狂う中、それも真暗闇の破壊された店内で、ただひとり。