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豆腐男

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 どれほどの時がたっただろうか。
 カスミは、列なって傾いた商品棚のうち一番傾きが少ないものの上、かろうじて身をおけるスペースでへばりつくように、まるまった格好で横になっていた。
 まるで自分が水浸しで売り物にならない品物のひとつに成り果て、見切り品として陳列されたみたいだ。
 ずぶ濡れの身が冷えきって、ガタガタ震えが止まらない。
 それでいて、全身が麻痺したように動くのが億劫だった。

 気が付けば、建物の外では、あれほど狂おしかった豪雨と暴風もしだいに鎮まりつつある。
 出水は引く気配こそないものの、水かさがこれより増す恐れもないようだ。
 心なしか、空も白みかけている。
 豆腐男の姿は、どこにも見当たらない。
 あいつは溢水の最初の直撃に呑まれ、そのまま外に運んでいかれたらしい。
 ともあれ最大の脅威は駆逐されたのだ。
 カスミは、こんな目に遭った自分はいったい災難に見舞われたのか幸運に恵まれたのかどっちだろうと、なかば朦朧となった頭で考えた。
 なお救助が必要な状況なのは間違いない。
 スマホがあれば助けが呼べるし全国的な注視の的にもなれるのに、あいにく蛆虫豆腐の騒ぎで失くしてしまったし。あったとしても、こんな惨めな姿を自撮りして日本中に配信するなど思いもよらない。

 だいたい、今夜起きたことを説明しても信じてもらえるだろうか。
 自分ですら身に起きたとは認めがたいことなのに。

 それにしても、あいつ!
 カスミの脳裏には怒りの感情とともに、店長の顔が浮かんだ。
 命に関わるとは思えぬ母親の看病をカスミの身を気遣うことより優先、「大丈夫だよ、豆腐男なんか」とへらへら笑うように出て行き、果たして彼女を死ぬほどの危難に追いやった大馬鹿野郎!
 張り倒してやりたくてたまらなかった。
 前に跪かせ、頭をつかんでこの泥水に押し付け、涙声で詫びさせなければおさまらない。

 カスミはふいにクシャミの発作をもよおし、ブルッと震えた。
 まあ、いいけど。
 今はただ、暖かくて安全な場所、家に帰ってぐっすり眠りたい。

 そのとき。
 気のせいだろうか。何かが泳ぎ着くように、バリケードのようになった陳列棚の連なりにドスンとぶつかる鈍い衝撃を感じた。
 何なの?
 闇の中、目を凝らしてくまなく見たが、誰もいない。
 カスミが安堵の吐息をついたとき、どろどろに濁った水面からいきなり男の手が伸び、カスミの足を握りしめた。
「ぐえーーっ!」

 ついで男が水面から頭を出し、馴染んだ顔と声とがカスミの目と耳をとらえた。
「げはあ、げはあ……俺だよ、俺」
「店長!」
「おまえを放っておけなくて……増水で通行止めになった橋を無理に渡ろうとしたけど、車が流されちまってよ……必死で泳ぎきってな、もう命からがらだったぜ」







 台風は通り過ぎ、氾濫した川も穏やかさを取り戻した。
 水浸しとなった店内は、陳列棚も商品もメチャメチャな有様で、こんな狭かったかと驚くほどのスペースにずぶ濡れの廃品を雑然と放り込み積み上げたようで、多くの人が買い物や用足しで馴染んだ場所とは思えなかった。
 豆腐男が暴れまわった痕跡などすべて洗い流されている。
 男がどうなったかはわからず、身元もついに謎めいたままとなった。

 やがて。
 保険は下り、店は修復された。
 カスミも職場に復帰した。
 初夏には、店長と式を挙げる予定だ。

「やだ、また売れ残ってる……」
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 あいかわらず客に不評のまま、見切り品売場で不動の地位を占めていた。
 もう買っていってくれる客もおらず、売れ残れば廃棄されるだけなのだ。
「店長。このメーカーの品物、もうやめようよ」
「おまえもそう思うか?」
 豆腐男の事件からわかった大切なものがあるとすれば、愛の美しさや女性の自立などではなく、売れないとわかった品はもう売らないという踏ん切りのよさかもしれない。


†             †             †



 しかし。
 豆腐男の件が落着ししばらくすると、今度は納豆女が……。

 それは奇怪な光景だった。
 三十がらみの女が早朝の決まった時刻に来店し、その日期限切れとなる納豆ばかりを買っていく――。




( 完 )
作品名:豆腐男 作家名:青木誠一