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WHO ARE ROBOT?

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。

                 三人三様

 時は近未来の近未来。目の前の時代の出来事のようで、実は今までにどうしてできなかったのか、誰もが不思議に感じることだろう。
 たとえば公共事業や建築についてもそうなのだが、計画の話が出てから、実際に形になるまでにかなりの時間が経っていることが多い。
 さらに、形になってからでも、少し進んでは、まったく進まず、いつ工事が行われているのか分からない状態がかなり続いたかと思えば、いつの間にかできあがっていたという状態になることも少なくはないだろう。
 近未来という言葉も曖昧なもので、どこからどこまでを「近」という表現で表せばいいのか難しいところである。距離を示す時に使う時、時間を示す時に使う時で、ニュアンスも微妙に違ってくる。
 時間を距離に当て嵌めて見ることもできるし、距離を時間に当て嵌めて見ることもできる。しかし、そのニュアンスはどちらに重きを置くかによって微妙に違ってもいる。
 時間を距離にして見る時というのは、時計をイメージするのが一番である、距離の場合は自分がいる場所から見ると、遠くになるほど、距離は曖昧に感じられたりする。
 だから、時計をイメージして時間を循環で考えると、刻んでいる時というのは、すべてが等間隔に感じられる。
――時間というのは等間隔で刻まれるのである――
 という当たり前の発想が、年齢を重ねるごとにマヒしてきているように思う。
 ただ、ここに一人の青年が、そのことに少しずつ疑問を感じるようになっていた。
 彼の名前は真田という男で、大学三年生になる、彼はK大学でロボット工学を専攻していて、ロボット工学を専攻してはいるが、将来ロボットの研究をするかどうか、考えているわけではなかった。
 ロボット工学というと、ここ十年くらいの間に注目を浴び始めた。ただ、注目を浴びてはいるが、目立って研究の成果が出てきたわけではない。確かに国家予算の中でもロボット工学に対して、ここ十年はかなりの額に達している。
 野党は、
「そんな海のものとも山のものとも分からない研究に、大事な国家予算を投入するのは予算の無駄遣いだ」
 と言って、予算案審議の中で、いつもやり玉に挙がっている。
 しかし、
「まだ始まったばかりなので、成果についてはもう少し待ってください」
 という与党の発言に対し、必要以上に執着することはなかった。
 実はロボット研究の分野に関しては、野党もその恩恵を少なからず受けていた。そのため、本来であればやり玉に挙げるのは筋違いなのだが、予算の額が半端ではないので、野党としても審議の話題に挙げなければ、国民を納得させることもできない。与党とすれば、逆に野党から攻撃されても、それでも審議を通せるのだから、国民に対しても言い訳をする必要はないのでありがたいことであった。
 つまりは、国会でのロボット審議に関しては、演技でしかないのだ。
 だから、時間もさほど使うこともなく簡単に予算を通すことができる、ロボット予算が通せれば、それに関連していくつかの予算案も連鎖式に通るものもあった。国会の茶番は別にして、研究としては真面目に文部科学省も取り組んでいて、予算に見合うような研究所の充実にも一役買っていたのだ。
 ただ、研究はかなり厳しいもので、予算の無駄遣いに関しては、しっかりと目を光らせていた、国民の目も無視できるものではなく、研究を志す研究員や学生の数は年々増えてきていた。
 K大学でも、元々存在していた工学部は、電気関係の研究が主で、コンピュータ関係を目指す人が爆発的に増えた時期には、情報処理学部として独立した学部となった。これはK大学に限ったことではなく、他の大学にも言えることで、世の中の情勢からか、専門学校も増えてきたのは、周知のとおりであった。
 だが、ロボット工学については、確かに注目もされているし、国家予算の投入も半端ではない。だが、情報処理が発達した時ほどの爆発的な発展はないだろうというのが、世間一般の考え方だった。
「ロボット工学というのは、情報処理よりもさらに前から研究されていたにも関わらず、コンピュータの方が先に日の目を見た。それは、コンピュータの方が研究しやすかったわけではなく、ロボット工学の研究の方が、難しすぎるのだ」
 と言われてきた。
 一般の国民には、詳しいことまでは分からなかったが、少なくともコンピュータや工学関係を目指している人には、広く知られたことであったのだろう。
 ロボット工学には、大きな問題が潜んでいた。
 一番大きな問題は、
「ロボット工学三原則」
 と呼ばれている問題だった。
 この問題は、すでに二十世紀の中旬くらいに発表されたものだった。しかも、発表したのは工学研究者ではなく、小説家だったということを知っている人は、どれほどいることだろう。
 それ以降に発表された特撮関係のドラマや映画でロボットを取り扱ったもののほとんどは、この三原則をテーマにしていたといっても過言ではないだろう。
 元々、三原則の発想が生まれたのは、フランケンシュタインの存在からであった。
 フランケンシュタインも元々は小説からの発想であり、博士が作った人間の形をしたロボットが開発者の意思に反して、人類を滅亡に導くような内容のものであった。フランケンシュタインという発想自体がなかなか信じられない発想であるのだから、その結末も、あらゆる可能性を含んでいるとも考えられる。どんなに奇抜な結末であっても、誰もが疑うことはない。それを時代が進んで二十世紀半ばの小説家が、ロボット開発の問題点について提起した小説を発表したのだ。
 つまりは、
「ロボットに人間に逆らわないような内容の絶対的な意識を植え付けることで、にフランケンシュタインのような悲劇を起こさないようにする」
 というものである。
 人間を傷つけてはいけないという発想だったり、人間のいうことには絶対に服従であったりという原則をあらかじめ、セットしておくというものである。
 しかし、提案したのは小説家である。彼は、自分の提唱した三原則を、小説の中で矛盾をつくことで、ストーリーを作り上げるという作法を用いた。その手法として、
「三原則に優先順位を持たせる」
 というものだった。
 優先順位を持たせることで、ロボットはその優先順位に悩んでしまい、動くことができなくなるという「危機」に陥った。
 ロボットが陥った危機は、当然それを作った人間にも大きな影響を与える。それをいかに解決するかというのが小説の骨格であり、作者には、作家としての才覚と、研究員としての目を身に着けることで、小説は伝説になってしまったのだろう。
 ただ、小説の中に出てきた「三原則」が一人歩きを始めたというのが、今のロボット工学研究の原点になるのだろうが、三原則がパイオニアになって、それ以降のSF小説や特撮にロボットという発想を与えることで、研究よりも小説が先行してしまうことになったのであろう。
作品名:WHO ARE ROBOT? 作家名:森本晃次