第七章 星影の境界線で
1.天上の星と地上の星−1
欠けた月の空に、溢れんばかりの星々が瞬いていた。
郊外の空気はつんと澄んでいるからだろうか、春先の夜風は思っていたよりも冷たく、軽く肌が震える――。
斑目タオロンは、夜闇のバルコニーから眼下を見下ろした。
闇といっても、この別荘の幾つかの窓からは電灯の明かりが漏れ出していたし、庭の外灯は敷石のざらついた表面の陰影がはっきりと分かるほどの光量がある。室内よりは暗い、といった程度だ。
時折、庭をうろつく影が外灯の光を遮り、青芝生に人の形を浮かび上がらせていた。見回りの者たちだ。やる気のなさそうな、のんびりとした足取りである。
タオロンが視線を伸ばして門を見やると、左右に分かれて立っているはずのふたりの門衛たちは、仲良く並んで壁に背を預けて座っていた。おそらく、雑談でもしているのだろう。どうにも別荘にいる者たちは、本邸警備の者たちと比べ、たるんでいる。
……気持ちは分からないでもない。
元来、凶賊(ダリジィン)なんてものは、規律正しい世界が息苦しくなった者たちの行き着く先だ。勤勉な者など珍しい。
タオロンが溜め息をついたとき、隣の敷地にある森に囲まれたキャンプ場から、ぱっと赤い光が飛び出した。
ほぼ同時に、破裂音が聞こえてくる。
どっと、歓声が上がる。――やや甲高い少年たちの声だ。花火だか爆竹だかで遊んでいるらしい。
キャンプの気候は、まだ先だ。今は、夜遊びしたい悪餓鬼どもの丁度よい遊び場なのかもしれない。
この騒ぎが気になって、タオロンはバルコニーに出たわけなのだが、与えられた部下たちは敷地外のことにまで関わりたくはないと言わんばかりの態度――というわけだった。
命令しなければ駄目か……。
タオロンは再び溜め息をついた。
部屋に戻るべく戸に手をかけた瞬間、右上腕に軽い引きつりを覚え、彼は庇うように左手で押さえた。その下には、貴族(シャトーア)の娘に刻まれた傷があった。彼女には「かすり傷だ」と告げたが、それほど簡単なものでもなかった。彼の経験上、一週間は刀を振るえば傷が開く。
「……」
そのはずだった。
だが、〈七つの大罪〉の〈蝿(ムスカ)〉の治療を受けた途端、傷口が新しい皮膚で盛り上がった。素振りをしてみても、鋭い痛みはあるものの傷は開かなかった。
『だから、私の本分は医者だと申し上げたでしょう?』
低い声が見下したように嗤う。
『少しは私の言うことを信じたらどうですか?』
――今、斑目一族の本邸には、鷹刀一族の軍勢が向かっているという。次期総帥、鷹刀エルファンが指揮しているというから、本気でかかってくるつもりなのだろう。
タオロンとしては、そちらの部隊に加わりたかった。しかし、〈蝿(ムスカ)〉が、怪我を理由に別荘に配置するよう、総帥に進言したのだ。
斑目一族の総帥は、〈七つの大罪〉の技術に夢中だった。そして、それをもたらす〈蝿(ムスカ)〉の言いなりだった。タオロンが、貧民街で貴族(シャトーア)の娘を仕留められなかった罪でさえ、〈蝿(ムスカ)〉の口利きによって不問となっている。
そう――。
怪我を理由に、この別荘に来た。それなのに、〈蝿(ムスカ)〉は、あっという間に傷を癒やした。
ならば、自分が別荘に引きこもる理由などないではないか、とタオロンは〈蝿(ムスカ)〉に詰め寄った。
『この別荘には子猫が来ますよ。あの娘の父親を取り返しに。そのとき、あなたくらい腕の立つ人間がいないと、格好がつかないでしょう?』
幽鬼のように気配もなく、すれ違いざまにそう言い残して、彼は部屋を出ていった。
タオロンは三度(みたび)溜め息をつき、太い眉を寄せた。
夜の森を貫く、狭い散策路――。
鬱蒼とした木立が左右から迫り、湿気った青臭さが鼻をついた。
別荘からは目と鼻の先であるのに、深い木々の闇で隔てられた道は、まるで異空間だった。頭上の星明りでは心もとない。足元を細長く照らす、懐中電灯の光が道しるべだ。
目的地たるキャンプ場は、すぐ左手であり、それを証明するかのように、甲高い少年たちの笑い声が耳に障る。腰に佩(は)いた刀の重みを感じながら、三人の凶賊(ダリジィン)たちは、決して軽やかとはいえない足取りで歩を進めていた。
「面倒くせぇ」
ひとりの男が、大あくびをしながら呟いた。三人の中では一番背の低い、小男である。
寝ていたところを叩き起こされ、男は不機嫌だった。昨日、夜番だった彼は、まだまだ眠かったのである。
隣を歩いていた男が「まったくだな」と同意した。だが、そのふたりの前を歩く大男は無言だった。先頭に立つ者の責任のつもりなのか、機械的にも見える律儀さで、懐中電灯を持つ手をまっすぐに伸ばしている。
小男は、付き合いの悪い同僚に舌打ちした。そいつは配置転換で来たばかりの新顔で、口数が少なく日頃から感じが悪いと思っていた奴だった。何より、貧相な自分に比べ、巌のような大男であることが気に食わない。
小男は、大男を無視して、隣の男に話しかけた。
「……ったく、なんだって、俺たちが餓鬼に説教しに行かにゃいけねぇんだぁ?」
「あぁ。あの坊っちゃん、図体のわりに細けぇな」
隣の男は吊り目を細め、せせら笑った。相手が話に乗ってきたことに調子づき、小男は鼻息を荒くする。
「そうそう! だいたいよぉ、なんで、あの坊っちゃんがこっちの別荘に来てんだよ?」
不満をぶちまける小男に、吊り目男は「知らねぇのか?」と意外そうに声を出す。
「なんでも、怪我して前線を外されたらしいぜ?」
「怪我? あの坊っちゃんより強い奴なんていたわけ? 化物かよ?」
吊り目男は、ふっと嗤い、勿体つけるように声を潜めた。
「――ああ、鷹刀の孫だ」
噂が広がっていくうちに、いつの間にか、タオロンは『神速の双刀使い』――鷹刀リュイセンに負けたことになっていた。
「ははっ、そりゃ、立つ瀬ないわぁ!」
小男が、タオロンを卑下するように手を叩いた。
その瞬間、今まで黙って先頭を歩いていた大男が、いきなり振り返って小男の胸倉を掴み上げた。放り出された懐中電灯が、明後日の方向を照らし出す。
「あの人を悪く言うんじゃねぇ。殺すぞ」
表情の見えぬ薄闇の中で、どすの利いた声が響く。
「……なんだよ?」
掴まれた小男は声を返し、そして得心がいったように続けた。
「ああ、お前、坊っちゃんの『信者』だったのか」
「別に『信者』なんてもんじゃねぇ。ただ、あの人は『まとも』だ、ってだけだ」
ふたりの凶賊(ダリジィン)の間で、暗い火花が散る。吊り目の男は内心で溜め息をついた。――なんとも馬鹿らしく面倒臭い争いである、と。
「お前ら、喧嘩すんなよ」
斑目一族にしては実直すぎる、『坊っちゃん』こと斑目タオロンの周りは、二派に分かれる。『好き』か『嫌い』か、ただそれだけだ。
「部下たちが争っても、『タオロン様』は、お喜びにならないぞ」
皮肉を込めて言う吊り目男は、小男の味方だった。
この喧嘩は、放っておけば体格差であっという間に勝負がつく。だが、こう言えば、タオロンを崇拝している大男は引くしかない。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN