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第七章 星影の境界線で

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6.星影を抱く夜の終わりに



 春の夜の外気よりも、更に低く室温の保たれた仕事部屋に、滑らかな打鍵音が木霊する。既に真夜中を回っていたが、ルイフォンは報告書を作るべく、キーボードに指を走らせていた。記憶が新しいうちに、できるだけ早く情報をまとめておきたかった。
 これを朝一番にイーレオに提出する。外見はともかく実年齢はそれなりの総帥は、皆が無事に帰ってきたことに労いの言葉を与えたあと、早々に休んでいた。
 不意に、部屋の扉がノックされた。
 ミンウェイが茶でも持ってきてくれたのだろうか。そういえば、帰ってから彼女の姿を見ていない。
「勝手に入ってくれ」
 キーを打つ手を止めることなく、ルイフォンは言った。
 すると、廊下でかちゃんと陶器のぶつかる音がして、慌てたような小さな悲鳴が聞こえる。まごついた気配に、まさかと思いながら、作業中は極端に無精者になるルイフォンが席を立った。
 脅かさないようにと気をつけながら、ゆっくりと扉を開くと、涙目のメイシアがそこにいた。
 左手にはティーセットのトレイ。中身の入ったティーポットと伏せられたティーカップが手の震えに合わせて、かたかた音を立てている。一方の右手は、まさにドアノブをひねろうと半端に浮いた状態になっていた。
「ご、ごめんなさい。お茶を淹れてきたの……」
 片手でトレイの重量を上手く支えきれず、バランスを崩してあわや、というところだったのだろう。トレイには少しお茶がこぼれていた。
 ルイフォンの心がほっと温かくなる。
「ありがとう」
 彼はひょいとトレイを取り上げ、メイシアに部屋に入るよう促した。急に軽くなった手に「あっ」と小さな声を上げながら、彼女は頬を染めてついてくる。
「親父さんのそばについてなくていいのか?」
 眠ったままのコウレンは空いている客間に運び、メイシアとハオリュウに事情を話した。
 監禁生活による精神への負担が大きかったらしいと告げると、彼らの顔に深い影が落ちた。だいぶ老け込んだように見えると、ハオリュウが溜め息混じりに証言していた。
「ハオリュウが看ていてくれるって。それで、ルイフォンのところに行ってきて、って」
「そうか」
 メイシアとは再会もそこそこに、それぞれ仕事部屋と父親の客間とに分かれてしまったので、素直に嬉しい。
 ハオリュウは、どういうわけだか、すっかり態度を軟化させていた。
 あとで聞いたところによると、貴族(シャトーア)の誇り高い彼が、ルイフォンより先に戻ったエルファンの部隊を門で出迎え、頭を下げたのだという。
 ルイフォンに対しては、物言いたげでありながらも目を合わせないことで衝突を避けている。その様子は可笑(おか)しくもあった。
 機械類をどかしてトレイを置くスペースを作り、机の下に入れてあった丸椅子を出してメイシアに勧める。持ってきてくれたお茶を注ごうとしたら、彼女が遮った。
「あ、あのっ! 私がやります。お茶も……私が淹れたの。教えてもらって……」
 屋敷で一番、お茶を淹れるのが上手いメイドに教授してもらったのだと、顔を赤くしながら言う。普段は砂糖を入れないルイフォンだが、疲れているときには角砂糖をひとつ落とす。そんなことも習ってきたらしく、メイシアがぎこちない手つきでスプーンを回した。
「ど、どうぞ」
 メイシアがじっと見つめる中、ルイフォンは手渡されたカップに口をつけた。
 ……たかが、お茶を飲むのに、これほど緊張したことはなかった。
「ルイフォン……?」
 メイシアが、はっと顔色を変えた。慌てて自分の分を注いで飲む。途端、口元を抑えた。
 たかが、お茶。味見をしてくるようなものではない。――メイシアが味を知らなくて当然だ。
「す、すみません!」
「いや、別に飲めないようなものじゃない。……ただ、これを『美味(うま)い』と言うべきか否か、悩んでいただけだ」
 飲めない、というほどのものではない。ただ渋い。恐ろしく苦い。おそらく手際が悪いために抽出時間が長くなってしまったのだろう。多少、茶葉も多かったのかもしれない。だが、幸い砂糖の甘味もあるし、飲めないことはない。
 実は、メイシアを指導したメイドには、味の予測がついていた。
 親切なメイドは、メイシアにやり直しを勧めるつもりだった。しかし、先輩メイドが「初めは下手なほうが、ふたりのためなのよ」と小声で入れ知恵してきたのである。その結果、メイドは黙ってメイシアを見送ったのだった。
「も、申し訳ございません。淹れ直してまいります」
「いいって。それから謝るな」
 告白以来、彼女ができるだけ敬語を使わないようにしていることに、ルイフォンは気づいていた。なのに、すっかり萎縮のメイシアに戻ってしまっている。
 おどおどと見上げてくるメイシアの頭を、ルイフォンがくしゃりと撫でた。
「ありがとな。お前、茶なんて淹れたことなかったんだろ」
「はい。……恥ずかしながら」
 彼女は彼に近づこうと努力してくれている。
 それが、嬉しい。愛おしかった。
 ルイフォンが思わずメイシアを抱きしめようとしたとき、彼女が真面目な顔になって彼を見つめた。
「本当にありがとうございました。父も、異母弟も無事に戻ってきました。私、なんて言ったらいいのか……」
 抱擁のタイミングを逃したことを少し残念に思いながら、ルイフォンは微苦笑する。
「そんなにかしこまるな。俺は自分のやりたいことだけをやる男だ。お前の親父さんも、俺がお前に会わせたいと思ったから連れてきた。それだけだ」
「ルイフォン……」
「もっと気を楽にしてさ、自然で我儘なお前でいろよ。そして俺のそばに居てくれたら、それでいい」
 その瞬間、メイシアの顔が強張った。
 突然の変化にルイフォンは戸惑う。何も悪いことは言っていないはずだ。しかし、彼女は思い詰めたように口を開いた。
「あ、あの、ルイフォン。『俺のもとに来い』っていうの、あれは『駆け落ちしよう』って意味だったの……?」
「え? いや、別に。俺はお前に、ずっとそばに居てほしいと思ったし、親父にもお前の実家にもやりたくないから、俺のところに来いと言ったまでだが……?」
「あのね、ハオリュウがね、……それは駆け落ちだって」
 おずおずと、緊張した様子でメイシアが言う。何故そんな顔をするのか、ルイフォンにはまったく分からない。
「……ハオリュウね、初めは鷹刀のことを、凶賊(ダリジィン)だからって毛嫌いしていたと思う。けど、お父様の救出に懸命になってくださる皆様を見て、考えを改めた。ルイフォンのことを認めてくれた。はっきり言わない子だけど、私には分かるの」
「え……?」
 ハオリュウが、認めてくれた……?
「ハオリュウは、私が幸せになるなら祝福して送り出したい、って言ってくれた。けど、家事もできない状態じゃ無理だって。私……その通りだと思った」
 メイシアの視線が、中身の残ったままのティーカップに落とされる。
「ルイフォンが『そばに居て』って言ってくれているのに、私は行けないの……。少なくとも、今はまだ、駄目なの……。ごめんなさい」
 ルイフォンは、メイシアの不審な態度に、やっと納得がいった。肩を落としてうつむく仕草は憐れを誘ったが、その背後にハオリュウが見えてしまった。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN