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第七章 星影の境界線で

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 ローヤンは、突き刺すような視線でシュアンを見た。
「『私』は死にたくありません。あなたも、先輩に死んでほしくないでしょう?」
 声をつまらせるシュアンに、ローヤンはゆっくりと口の端を上げ、嗤う。
「あなたと『私』が出会ったことは、お互いにとって幸運でした。――手を取り合って〈蝿(ムスカ)〉を殺すためにね」
「……ふざけるな」
 深い憤りがシュアンを襲った。固く動きを止めていた喉から、つぶれた声が漏れる。三白眼が、かっと見開いた。
「あんたは、ずっと〈蝿(ムスカ)〉の指示に従ってきただろう? それが、どの面下げて『手を取り合って〈蝿(ムスカ)〉を殺す』だ?」
 ローヤンは、ふっと口元をほころばせた。
 それは笑んだつもりだったのかもしれない。けれど、あまりの禍々しさに、シュアンの背はぞくりとし、知れず後ずさった。
「『私』は――ああ、正確には『私』と、そこの死体となった男のふたり、ですね――〈蝿(ムスカ)〉の〈影〉にされた『私たち』は、『呪い』に支配されているんですよ」
「『呪い』?」
「ええ。便宜上、そう呼んでいるだけですけどね」
 ローヤンが思わせぶりに、くすりと嗤う。
「私は先ほど、〈影〉について『元の人間の記憶を、別の人間の記憶で上書きした』と言いましたよね。――つまり、〈七つの大罪〉は『人間の脳内に介入する技術』を持っているのです。そして『書き込む』ものは、『記憶(データ)』でなくてもよい。『誰かに逆らってはいけない』というような、『命令(コード)』を植え付けることも可能なんですよ」
 そう言って、「例えば」と、ローヤンの視線が隣の台の巨漢を示す。
「その男は〈蝿(ムスカ)〉の『奴隷』です。〈蝿(ムスカ)〉が望むであろう言動を取ります。それが至上の喜びであると錯覚する『呪い』とでも言うべき『命令(コード)』が、脳に刻まれているのです」
「――だから、俺がこいつを人質にしても『私のことはどうでもいい』と……」
「そういうことですね。〈影〉の思考は、記憶の元となった〈蝿(ムスカ)〉と同じですから、『かゆいところに手が届く』判断ができます。実に都合のよい、便利な駒です」
 拘束されていても、かろうじて自由に動かせる首を動かし、ローヤンは巨漢を顎でしゃくった。
「彼は、自白剤によって『〈影〉』と口走りました。鷹刀イーレオも、おそらく〈影〉という存在を知っているでしょう。だから、それ以上、情報を流してはいけないと判断した彼の脳が、血管に対し破裂するよう命令を出したわけです」
「……」
 シュアンも、巨漢を見やる。
 首まで掛かるような、大きな刀傷を抱えた男だ。どうせろくな人生を送ってこなかったに違いない。しかし、ここまで無残な屍を晒さなければならないほどの悪党だったのか――それは疑問だった。
「そして私にも、『奴隷』の『呪い』が掛けられるはずでした。けれど肉体との相性が悪かったのか、『自我』のようなものが残りました。そのため〈蝿(ムスカ)〉は、私には口頭で命令したことへの絶対服従の『呪い』を加えました」
 ローヤンの声に陰りが入る。深刻な顔になると、やはりシュアンのよく知る先輩にしか見えなかった。シュアンは、わずかに視線をそらす。
 そんなシュアンの心を揺さぶるように、ローヤンは静かに告げた。
「現在、私に課せられた命令は、巨漢の補佐と事態の報告。そして、今夜中に〈蝿(ムスカ)〉のいる場所に戻ること。――さもなくば、血管が破裂します」
 シュアンは息を呑んだ。
『こいつ』を捕らえたままにしておくだけで、先輩は死ぬ。けれども、逃したところで、先輩が元に戻るわけではない。
 自分の為(な)すべき行動を求め、シュアンは目深な制帽の下で、三白眼を忙しなく動かした。
 硬質な床には、巨漢の噴き上げた血溜まりが広がっていた。それが、近い未来の先輩の姿と重なり、彼は目を閉じる。眉間に深く皺が寄り、やるせない思いが溜め息となって口から漏れた。
 鷹刀イーレオを説き伏せて、ここにやってきたのに。相手は〈七つの大罪〉だと、知っていたのに――何もできないのだろうか……。
「ここまで聞けば、あなたはどうすべきか、もう分かりますよね? ――私と手を組みましょう」
 微笑みさえ浮かべ、ローヤンは言った。
「あなたと私は『この肉体を殺したくない』という点において、完全に利害が一致しています」
 論理的に聞こえる話。理知的なローヤンの声。だが、これは悪魔の言葉なのだ。
 耳を傾けてはいけない。そう思うシュアンの耳は、視界を閉ざした分だけ、いつもより鋭さが宿り、悪魔の声がはっきりと届いた。慌てて目を開くと、今度はローヤンの悲痛な面持ちが目に飛び込んでくる。
「遅かれ早かれ、私は〈蝿(ムスカ)〉に始末されます。――その前に、あなたに〈蝿(ムスカ)〉を殺害してほしいのです」
 真摯なふりをして訴えてくる。だが、先ほどミンウェイに投げつけた言葉は悪魔そのものだった。あれが本性だ。
 心を鎮めようと、シュアンはゆっくりと息を吐く。
「あんたの言いなりになったって、先輩は戻らないんだろう?」
「分かりませんよ?」
 ローヤンの目元が狡猾に歪む。
「〈七つの大罪〉は研究組織です。確かに、現在の技術では元に戻すことはできませんが、研究を続ければ、可能になるかもしれません」
「戯言だ……」
「私は肉体の再生技術を持っています。だから、私は新たな『私』の体を作り上げ、『〈蝿(ムスカ)〉』に戻りたい。そのとき、この体を返すことになんの問題もない――分かりますか? 利害は一致しているんですよ?」
 ローヤンは、利害の一致を繰り返し、強調した。
 シュアンは、濁った三白眼をローヤンの瞳に向ける。
 頭上の無影灯が、やけに熱く感じられた。シャツは背中に張り付き、制帽に押さえつけられたぼさぼさ頭が痒くてたまらなかった。
「そんな甘言を信じられるほど、俺は恵まれた人生を送ってきてねぇんだよ……」
 これは悪魔なのだ。言葉巧みに罠に陥れるもの。今までだって、数知れない『悪魔』がシュアンを襲ってきた。
 信じたら、裏切られる。
 喰われる前に、喰ってやる。
 シュアンは懐から拳銃を取り出した。
「私を撃つんですか?」
 ローヤンは――ローヤンの顔をした悪魔は、平然とシュアンを見上げていた。撃てるわけがないと高をくくっていた。
「先輩は元には戻らないと、あんた自身が言ったんだ。だったら、うるさい蝿は始末するだけだ」
「現時点では、と言ったでしょう?」
「うるせぇ!」
「短気な人ですね。ここは、とりあえず私の手を取るべきですよ。可能性はゼロじゃないんです。希望はあります」
 駄々っ子を諭すような口調に腹が立つ。シュアンは顎を伝ってきた汗を、手の甲で乱暴に拭った。
「悪魔が『可能性』だの、『希望』だの。反吐が出るね!」
 シュアンはローヤンの額に照準を合わせた。
 そのとき――。
「緋扇さん……!」
 ふわり、と。
 シュアンの横を干した草の香りが抜けた。彼の銃口の前に、ミンウェイが立っていた。斬り込むような鋭い視線。強い意志を持つ、決意した者の顔だった。
「そのカードは、まだ切っては駄目です!」
 ミンウェイの厳しい声が響く。
作品名:第七章 星影の境界線で 作家名:NaN