短編集32(過去作品)
しかし、商談に喫茶店を使うようになってそうも言ってられなくなった。初めて入ったコーヒー専門店、匂いを嗅いだだけでも苦さが滲み出ていそうで辛かったが、なぜかその時に飲んだコーヒーが苦味を感じなかったのだ。
苦くないといえば嘘になるが、乾いた喉に流し込むと、落ち着いた気分になれたのだ。
「おいしい。コーヒーとはこれほどおいしいものだったんですね」
思わず商談中に口に出したくらいだ。相手のバイヤーは年齢的にも立場的にも会社で一番油の乗った時期なのだろう。子供のようにはしゃぐ門倉を見て、ニコニコ微笑んでいる姿はまるで子供を見る父親のような目だった。
「君は実においしそうにコーヒーを飲むね。私もここで商談をしていて君ほど気持ちを出してくれる人は初めてだよ」
「ありがとうございます。そんなに感情が表に出ていますか?」
「ああ、実に楽しそうで、私の若い頃を思い出すよ。やる気に満ち溢れていた時のことをね」
それほど自分がやる気に満ち溢れているという意識はない。ただ、毎日が勉強で、時間が経つのを忘れるくらいなのだ。気持ちが充実していた時期なのだろう。
そんな時というのは、何か予感めいたものがある。どんなことを予感したのか分からないが、気持ちの中で高ぶってくるものがあるのだ。気持ちに余裕を持つことができると予感は膨らんでくるもので、きっとそれが顔にも出ていたのだろう。まわりの人との接し方も実に柔らかなものに思えてならない。
それからの門倉は精神的に起伏の激しい時期を迎えた。初めて自分が躁鬱症なのではないかと感じた時期だったのは、皮肉なものだ。
だが、予感はいい方に当たっていた。喫茶店を商談に利用するようになってからしばらくして知り合ったのだ。知り合った時期もちょうど欝状態から抜けた時期で、まわりがすべて明るく見え始めた頃だった。
――これで、もう落ち込むことはない――
と思ったほどで、気持ちに余裕が持てたことで知り合えたのは間違いなかった。それも自分の性格が表に出る方だからだと思う。余裕を持てるから笑顔でいられ、笑顔が伝わるから女性とも知り合えるのだ。それがその時の門倉だったに違いない。
世の中を甘く見ていた時期があったとすれば、一番危ない時期だったかも知れない。人を信じることを一番に考え、人が信じられなくなるなど考えてみたこともなかった。
学生時代から好きだった旅行も、なるべく行きたいと思っていた。会社の仕事に慣れてきた頃には、よく出かけたものだ。それも初めての土地というわけではない。一度言ったことのある土地を訪ね歩くのが好きだった。
――学生時代とは違うんだ――
そんな気持ちを強く持っていたように思う。きっともう一度行けば、気がつかなかったところに気付くだろう。それは旅先だけに限らず、自分の性格にとっても同じことが言えるはずだ。これまでの心境の変化をかつて訪れたことのある土地で顧みてみる。それが目的の一つでもあった。
学生の頃というと精神的に余裕はあったが、本当の意味での気持ちの余裕があったと言えるかどうか分からない。精神的に余裕がありすぎると、余計なことを考えてしまって、それが自分を袋小路に追い込むことが多々あった。今となって考えるから分かることであって、当時理解できるほど気持ちに余裕があったとは思えない。
社会人になると精神的に余裕がなくなる時が何度かあるが、それでも気持ちに言い知れぬ不安はない。旅行に出かけて一番強く感じたことだった。
きっと付き合っている女性がいたからだろう。彼女の存在がなければ、そこまではなかったに違いない。
智代は長いストレートな髪を後ろでいつも結んでいて、後ろから見るとすぐに分かった。華奢で小柄な身体つきが、
――包み込んであげたい――
という男心を刺激したのだろうか。
智代は無口なタイプだった。他の人といる時は結構話をしているのだが、一人になったり、門倉と二人きりになると途端に無口になる。余計なことを喋るタイプではないということだ。
旅行に出かけて一度智代に似た女性を見かけたことがある。智代と知り合って半年ほど経った、お互いの気持ちを手探りに探り合っている時期だったように思う。
門倉は自信がなかった。智代と親しくなればなるほど、
――嫌われたらどうしよう――
と感じるようになっていた。付き合い始めた頃はむしろ、
――いつまで続くか分からないが、とにかく堂々としていればいいんだ――
と思っていたくらいだったのにである。そんな態度は相手に伝わるものらしく、何となくぎこちなくなった時期があったのも事実で、そんな時に出かけた旅行は、
――自分を取り戻すための旅だ――
とまで思っていたほどである。
それでも気持ちには余裕があった。学生の頃のような言い知れぬ不安があったわけではなく、目的がしっかりしているだけに以前に来たことのあるところでも、違った角度から見ているように思えた。
二年や三年でそう観光地というものは変わらないだろう。観光地はもちろんのこと、訪れたかったのは人里離れた温泉のようなところで、鄙びていても、そこに存在する情緒を味わいたかった。昼間は一度訪れた観光地をまわり、夕方からは憧れていた鄙びた温泉に泊まる。これこそが旅の醍醐味というものだ。
その女性と出会ったのは観光地の目玉でもある城の天守閣であった。女性といえばアベックや二、三人の友達同士という人が多い中で、彼女だけが一人呆然と下を見下ろしていた。
「どうかしましたか?」
そう言われてビックリしてしまった。じっと見つめていたつもりはなかったが、それほど視線がするどかったのか、と思うと顔が真っ赤になるのを感じた。
「あ、すみません。そんなにじっと見つめていましたか?」
彼女の覗き込むような瞳に一点の曇りすら感じられない。智代とイメージがダブったとすればそれが最初だったに違いない。他の人には失礼で聞けないことをいきなり聞いてしまったのも、初めて出会ったような気がしなかったからなのだろう。
「そういうわけではないですよ。本当はあまり人の視線を感じることはないんですが、今日は偶然にも気付いてしまったようですね」
照れ笑いを浮かべるが、むしろそんな表情をしたいのは門倉の方だった。お互いに照れ笑いを浮かべしばし見詰め合った。門倉はもちろんのことだが、彼女の方も決して顔を背けたりしなかったのは、何か思うところがあったのかも知れない。
一緒に天守閣を下りると前に来た時に気に入った喫茶店に彼女を誘ってみた。
「いいですよ。どうせ一人旅で、あてなんてありませんからね。ご一緒しましょう」
城のお壕を横目に見ながら歩いていく。風も感じないのに、水面には無数の小さな波紋が流れていて、暑い中に涼しげな雰囲気を醸し出していた。
壕の横には柳の木が植わっていて、かすかにしか揺れていない。
「今日はあまり風がありませんね」
「そうですね。暑いですか?」
「ええ、でも、太陽の照りつけが激しいわりには、それほど暑いとは感じません」
「私は名前を門倉といいます。あなたは?」
「私は谷崎純子といいます。よろしくね」
笑顔は間違いなく素敵な女性である。
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次