短編集32(過去作品)
弟はそんな兄の性格を見切っていたようだ。さすがに兄弟、見切られたことが嫌で嫌で溜まらず、弟を毛嫌いしていた。逆に親は正春の気持ちや性格を分かろうとしなかった。年齢的なもの、親としての立場もあってか、自分たちの殻に子供を閉じ込めようとしていたのかも知れない。
そんな親や弟に囲まれていれば、逃げ出したくもなるというもの、自分の性格を把握する前にまわりが見えてしまった正春には、すべてがジレンマでしかなかった。
それでも温泉に連れて行ってもらった時は嬉しかった。親兄弟と一緒というところは気に食わなかったが、やはり普段と違う環境に身を置くことで少し穏やかな表情を垣間見ることができただけでも来た甲斐があったというものだ。
温泉といういうと風呂桶の乾いた音が湯気の中に響いているのが嬉しい。
「カッコーン」
耳の奥に響いていると、お腹が空いてくる。宿についてまず最初に温泉に浸かる。そして食事というパターンを見切っていることへの身体が示す無意識の反応でもあるのだ。
喫茶店のマスターに薦められた温泉は、観光客が多いようなところではない。マスターと他の客が話していたのを想像した時のような、海の近くの温泉で、まるで自分が捜し求めていた場所を見つけたような気がする。ただ湯に浸かって、おいしいものを食べているだけでもいいのだが、それだけでは物足りない。最初は自分でも釣りをしようと考えた。
釣りは学生時代に友達と行ったことがあったので、少しやったことがある。
「釣りって短気なやつに向いてるらしいぞ」
「そうなのかい? じゃあ、さしずめ俺なんかダメだろうな」
というと、一瞬吹き出し、
「何言ってるんだ。お前のためにあるようなものじゃないか」
「俺ってそんなに短気かい?」
「ああ、自分で分からないか?」
「分からない……」
実際に自分が短気だなんて考えたこともない。
だが、その時の言葉を今になって思い出す。確かに大学の頃まではあまり短気な方ではなかっただろう。人のいうことに逆らったりなど考えられなかったし、人と一緒にいるだけで楽しかった。
自己主張が足りないわけではない。人のことが分からないと自己主張もありえないと考えていたからだ。人の話を聞くのが好きだった。なぜ人の話が好きだったかというと、人の話を聞いていると自分に置き換えて考えることができたからだ。想像力が豊かでがあっただろう。そうでなければ楽しいことを考えたりなどできなかったはずだ。
楽しいことを考えている間はいいのだが、一たび嫌なことを考え始めると頭がどんどん最悪へと考えを導いてしまう。そんな自分が嫌でたまらなかった。
大学の時の友達で、正春から見ても自由奔放に生きているやつがいた。自由な発想が羨ましく、自分に備わっていないことは一目瞭然だった。発想はいつも奇抜で、それだけに話を聞いているだけで面白い。まるで自分も自由奔放に生きているように思え、人生とはこれほど愉快痛快なものかと感じてしまうほどであった。彼の趣味が釣りだったのだ。
「釣りに行こうか?」
竿を垂らしているだけで、何を考えているのだろうと思っていた釣りに誘われたのである。それこそ時間というものをあまり深く考えたことのない正春であったが、さすがにもったいないと思えて仕方がない。
――では他に何をするんだ?
と言われても答えようがない。
その友達は社長を親に持つやつで、泊まるところも困らなかった。父親の経営しているホテルがちょうど海を一望できるところに建っていて、少し入れば漁村のような寂れたところも残っていた。今から思えば土地開発は付近の住人にとって、厄介なことだったに違いないと思う。
結構釣りを楽しむ人も多いものだと感じたものだ。真っ暗でハッキリと見えないが、夜のしじまに隠れるようにところどころで蠢いているのが見て取れる。年寄りが多いのかと思ったが、案外未成年もいたりする。何が楽しみなのか皆一人一人に聞いてみたいくらいだ。
その友達とも今は縁遠くなってしまった。きっと、正春の方から遠ざかったのかも知れない。釣りに対する興味も薄れてきた頃には潮時だったようだ。
今はその場所がどうなったのか分からない。その友達もすでに親の後をついで、立派な経営者になっているかも知れない。彼のことだから、あの場所だけはそっとしておいているかも知れないが、経営という場所に身を置けば、センチメンタルな気持ちなど忘れ去るものではないだろうか? ある意味平凡な自分を羨ましく思う正春である。
マスターの誘いで向かった温泉でおいしいものを食べ、ゆっくり温泉に浸かり、おもむろに釣竿を垂れている。時間の感覚などそこには感じない。毎日を世知辛く生きているのがウソのようだ。
いつもの場所にいつもいる女性、彼女のことが気になり始めたのはいつからだっただろう? 今回の旅行の目的は彼女と話をしてみたいという気持ちがあった。如何わしい気持ちがないとは言い切れない。寂しい独身男性だという自覚を持っている正春にとって、仕事以外の時間は寂しさが増すばかりだ。忙しいということが決して悪いことばかりではないと思うのは無理のないことである。
それまでに、女性と真剣に付き合ったことがなかった。中途半端な付き合いならなかったわけではないが、中途半端にしてしまったのも正春自身、自業自得というものだろう。
「あなたの第一印象は最高よ」
友達になるとすぐに恋人気分になる正春は、そういわれるのが一番嬉しかった。
「そうかい? そんなものなのかな?」
わざとニヒルに答えてみる。相手はその仕草を心地よいものとして受け取ってくれているようだ。相手のことを知りたいと思うがあまり気を遣うことをしない正春の性格は親を見ていた身についたものだろう。厳格な父は、男から女性に対してあれこれ気を遣うものではないという発想を持っていた。あまりいい性格ではないと思いながらも正春はそんな接し方しか女性に対してできないようになっていることに気づいた。
それでも相手のことを知りたいと思う。そのためにはまず自分のことを知ってもらいたいと思うのだが、自分のことを話すにもどこまで話せばいいのかを考えてしまう。いや、本当の自分のことを分かっていないのだ。本当に自分のことを分かっている人間など、どれほどいるというのだろう。
「君は僕のどこを気に入ってくれたんだい?」
この質問に返ってくる返事が、
「あなたの第一印象は最高よ」
という言葉なのだ。
最初に自分で釣竿を垂れた場所からいろいろ移動してみる人もいるが、正春は移動することなく、いつも同じ場所を自分の釣り場にしていた。だから、頭を上げるといつも見える光景は同じだった。太陽の位置によって、時間までが大体分かるようになったくらいで、季節が変わっても分かることが却って不思議に思うくらいである。まあ、でもほとんどが夜釣りなのだが。
「場所を移動すると後悔するような気がするんです。移動して釣れないのも、そのままいて釣れないのも変わらないと思うんですが、やっぱり同じ場所にいたいんですね」
とやはり同じ場所を漁場にしている人と話をしたことがあった。
作品名:短編集32(過去作品) 作家名:森本晃次