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短編集31(過去作品)

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大人の自分



                大人の自分


「ふぅ」
 一気に襲ってきた虚脱感の中、私は身体を起こした。
「溜まってたのね。お客さん」
 その言葉に答える気力もないほどの虚脱感があった。喉が無性に渇いていて、出てくるのは溜息だけだった。
 女は私の気持ちが分かってか、それとも営業からか、
「コーラ、アイスコーヒー、ウーロン茶、どれにします?」
「アイスコーヒーを」
 それだけいうと、小さな冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出してきて、目の前で蓋を「シュパ」っと開けてくれ、
「はい、どうぞ」
 と渡してくれた。仄かに香ってくる柑橘系の香り、さっきまでは溜まらなく誘発されるような香りだったが、今はあまり感じない。ここから先は恋人気分を味わえばいいのだ。ほんのひとときの恋人気分……。それを味わいたくてやってきたはずなのだ。
 服を着るにも身体がまだ少しだるい。裸の上に局部を隠すように渡されたタオルを乗っけているだけだ。しかし妙に火照った身体に気持ちよく、タオルの感触を身体全体で感じているようだ。
 思わず女の肩を抱いている。もちろん裸のままの女もそれを心得ていて、私に身を任せてくれる。ここはそんなところ、何度来ても、この瞬間が一番気持ち的には癒される。
「まいちゃん、気持ちいいかい?」
「ええ、お客さん」
 しな垂れてくる身体を抱きしめながら至福の征服感に酔っている。本当は名前で呼んでほしいのだが、なぜか名前を明かしてはいない。怖いわけではないのだが、最初に彼女から「お客さん」と言われて感じたそのままいたい気がしたのだ。
 ここは六畳ほどの一室に簡易ベッドが置いてあるだけのところ、扉を開ければ小さなシャワールームがあり、それぞれの個室にシャワールームがついているという贅沢なお店でもある。ここで「まい」に相手をしてもらうのは何度目だろう。いつも倦怠感の中、思い出そうとしているように思う。
 この部屋に来るたびに思う。
――何となく懐かしく感じてしまうんだよな――
 以前にも同じような思いを感じていたのだが、それはこんな部屋ではなかった。しかし、同じような気持ちを感じているからで、そこには「安らぎ」のようなものが、いつも存在しているのだ。
 それもごく最近のことではない。かなり昔の思い出である。だが、この部屋で感じると、それがまるでついこの間だったような気持ちになるから不思議だった。
――恋人の部屋だったのだろうか――
 思い出そうとしても、この部屋では思い出すことができない。何とも不思議な感覚の中、時間だけが過ぎていく。
 感じるのは香水の香り、鼻をつく感じがするのだが、仄かな甘さにくすぐられる鼻腔、思わずクシャミが出そうになり堪えていると、却って鼻がムズムズしてくる。
 無性に喉が渇いている。きっとコーラなどでは、潤すことはできないだろう。かといってウーロン茶ではあまりにも味気なく、同じ香りを口の中で感じてしまいそうで、こういう時にはコーヒーの香りが一番いい。
 甘い香りに香ばしさが反応して、渇きを潤してくれそうに感じるのだ。何となく感じている眠気も一掃してくれそうで、喉を通る時のコーヒーの冷たさが、素敵に爽やかである。
「ブー、ブー」
 そんな至福の恋人気分を味わえる時間は、本当に短い。いつものように時間を告げるブザーがなると、あとはそそくさと動かなければならない。
「時間が近づいたわね。また、いらしてね」
「ああ、本当にここでの時間は短く感じる。ずっと君とここにいたい気分だよ」
「ええ、私もそう。本当に残念だわ」
 この言葉を本心だと思いたい。しかし、本心だと思ってはいけないと必死で訴える自分がいる。相手の言葉をすぐに鵜呑みにする私を戒めるもう一人の私の声だ。
「お前はそれで失敗してきたんじゃないか」
 それを言われるとどうしようもない。心の中のもう一人の自分が叫ぶ言葉に耳を傾けるしかない。だが、この部屋にいる瞬間だけは、「まい」の言葉を信じたい。それくらいのわがままは許されてもいいのではないか。どうせ表に出れば、嫌というほどの罪悪感に苛まれるのだから……。
 表に出ると、外は真っ暗。漆黒の闇を見上げながらネオンサインを眺めていた。空に出ているはずのない星をなぜか探している。ゆっくりと見上げながら近くの公園のベンチに腰を下ろしていた。
 寒くもなく暑くもない。時期としては一番いい時ではないだろうか。桜も散ってしまっていたが、何となくウキウキした気持ちは、まだ心の中に残っている。忙しかった仕事も一段落して、少し自分のことを考えられる余裕も出てきたのかも知れない。「まい」に会いたくなるのはそんな時期だった。そういえば、「まい」に最後に会ったのは、よく考えてみれば二ヶ月前だった。ごく最近のように感じたのは身体に覚えがあっただけで、それだけ仕事に集中していたのかも知れない。男としてはそれでいいのだろう。気がつけば心も身体も寂しかったというだけだ。
「彼女を作ればいいじゃないか。緒方、まさかお前がこんなになっちゃうなんて思わなかったぞ」
 最初に「まい」が所属するお店に連れていってくれた同僚の朝倉はビックリしていた。しかし実際に一番ビックリしているのは私本人である。最初は軽い遊びのつもりでついていっただけだった。いや、最初はついていくのも渋々だったように思う。その時朝倉を中心に何人かで飲んだあとに、朝倉が、
「風俗にでも行こうぜ」
 と言い出したことがきっかけだったのだ。朝倉としては、軽い気持ちで、二次会くらいのつもりで言ったのかも知れないが、一度も風俗に足を踏み入れたことのない私には、かなりの躊躇いがあったのも当然といえば当然である。
「行こうぜ、緒方。こういうのは酔った勢い、勢いが大切なんだよ」
 私が風俗に行ったことのないことを知っているようである。躊躇い方一つでわかるのだろう。彼には私を説得するなど、赤子の手を捻るがごとくだったようだ。
――まるで昨日のことのようだな――
 公園のベンチで一人ごちた。
 そういえば、最初に「まい」に会ったのはどれくらい前だったのだろう?
 気がつけば常連になっていて、最初の頃は一週間に一度は顔を出していた。
「まいさんを」
 とボーイに指名しては、部屋に入るなり、
「あら、おかえりなさい。お待ちしていましたわ」
 という会話が嬉しかった。その言葉を聞きたいために、足しげく通ったといっても過言ではない。
 だが、深入りすることはなく、一定の距離を保つことは忘れていない。あくまでもここで、そして、この時間だけ私のものなのだ。そう思って部屋に入るなり抱きしめたことも何度かあったが、「まい」は抵抗することもなく、身体を私に預けてくれる。
「あなただから……」
 などと耳元で囁かれると、一度力強く抱き、後は座って「まい」にすべてを任せようとする。
作品名:短編集31(過去作品) 作家名:森本晃次