隠子の婚約+美人の退職+愛娘の受験+仕事の責任=幸せの1/2
第13章 愛音の自宅
愛音の自宅に知子が来たのは初めてだった。退院後、自宅まで送り届けてくれた知子に、玄関先で帰ってもらうわけにも行かず、愛音は自宅に招き入れた。
「紅茶でいいですか?」
「そんなのいいよ。普通のお茶で」
知子を応接室に通した。
「寛いでてください。お湯沸かしてきますから」
「あなたこそ、ゆっくりしてよ」
愛音はすっかり元気になって、お腹の子供も診察の結果、問題なかったようだ。
一人になった知子は、少し広いその部屋に置かれている、大きなグランドピアノを見て、その椅子に座り、鍵盤に触れてみた。彼女も幼稚園の頃、ピアノを習っていたことがあったのだ。
「まだ『メリーさんのひつじ』くらいなら弾けるかな」
(♪)ミ・レドレ・ミ・ミ・ミ・・・
鍵盤を右手で叩いてみたが、思ったより小さな音しか鳴らなかったので、(こんなに力の要るものだったのかな?)と不思議に思った。
愛音が応接室にポットと紅茶のセットをトレーに載せて、戻って来ると、
「ピアノ弾かれるんですか?」
「ううん。小さい時、ちょっとだけ習ったことあるんだけど、もうすっかり忘れちゃってるわ。博之さん、これで練習してたのね」
「ええ、あきちゃんも頑張ってましたよ。パパからは、知子さんがピアノを習ってたって、聞いたことなかったから、なんか少し嬉しいです」
「あら、そうだった? あの人、私の実家にアップライト(ピアノ)置いてたの知ってるはずなのに」
「ええ? そうなんですか?」
「でも、私が家を出た後、兄夫婦が実家に戻って来て、処分しちゃったみたいなの」
「もったいないですね」
「それで忘れちゃってるのかな」
愛音はローテーブルの横に膝を着き、ティーカップをソーサーに載せて、ポットに入れたアールグレイを注いだ。
「さ、紅茶入りました。どうぞ。お砂糖は入れないんですよね」
「うん」
「私は甘いもの大好きです。こんなクッキーしかないですけど」
紙箱に入ったクッキーを差し出した。
「うん。ありがと」
そう言って、知子は古い応接セットのチェスターフィールド調のソファに座った。