隠子の婚約+美人の退職+愛娘の受験+仕事の責任=幸せの1/2
事務所に戻ると、小原が怒った顔をしている。普段の外面はいいが、気性の荒い女だからうまくいかない時は、周囲に当たることもある。
「木田さん、ちょっとミーティングいいですか?」
「ああ、分かった」
博之は小原の言うミーティングの意味を悟った。自分も気持ちが穏やかじゃなく、コーヒーを飲みたくなって、二人で食堂に向かうことにした。
「ああ、あの子達何なんでしょうね。3人ともなんかこう、やる気がないと言うか。自分ごとじゃないって言うか」
小原は歩きながらも、怒りが我慢出来ないようだ。
「丸川もおんなじ」
「係長にもなってですか? 人って動かないですよね」
廊下ですれ違う人に会話の内容を聞かれないように、小原は小声になった。
「自分に出来ることをすればいいだけなんだけど。出来るのにしない。人にやらせることだって、自分に出来ることを教えるだけなんだよ。でもそれ以前に、自分でも出来るようになろうとしてないんだわ。こりゃ参ったよ」
お互い溜息をついた。博之は小原とのミーティングと言っても、仕事としてではなく、お互いに愚痴の言い合いで、ストレス解消してるだけなのだと感じていた。それでも丸川のように、相談さえして来ないよりははるかにマシだ。
食堂に着いた二人は、娯楽コーナーのソファに座った。
「ああ、もう逃げ出したくなっちゃいます」
「・・・君にも逃げられたら、僕はもう打つ手がないよ」
「木田さん・・・、自分のこと普段は『僕』って言いますよね」
「そりゃ仕事上は『私』か、せいぜい『僕』だよ。それがどうかした?」
「『牡蠣小屋』行った時、木田さん自分のこと『俺』って言われたでしょ」
「ああ、普段は畏まってないから、『俺』とか『わし』とかって言うこともあるよ」
「『わし』って言うんですか?(笑)それ、変!」
「会社じゃ上司を演じてるだけだよ。こんなことをしたくて、仕事してるんじゃないけど、俺だってもう、新しいことにチャレンジするようなバイタリティもなくなって来たし」
「『俺』って言われてる方が、なんか私安心します。『僕』とか『私』って言うのは、本音で話せないって言うか、堅苦しい仕事してるんだって気になって」
「俺の立場じゃ、なかなか砕けて仕事するわけには行かないよ」
二人が座る距離は1メートル。微妙な距離感の中、博之には何かが変わる予感がした。
「私にはもう、ざっくばらんでいいですよ。私もその方が気楽ですし。『牡蠣小屋』で私のこと『お前』って呼ばれて、少しキュンてしました」
これこそ小原お得意の、男をキュンとさせる技だ。