サイバードリーミーホリデイズ
入社の際社長との個別面談で(個別面談は全ての新入社員が受けるものだったらしい)、僕はとくとくと「労働の尊さを」訴えられた。ラジオのパーソナリティのように野太く、よく通る声だった。
「森高君。僕はね、たった三年で会社をここまで大きくしたんだ。死にもの狂いで働いてね。だからというわけではないけど、君もとりあえず三年を目標に頑張ってくれないか。若い内にがむしゃらに働く経験をしておく、これはとても重要なことだ。徳川家康の言葉にこんな言葉がある。『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』ようはだね、長く辛いことも多い人生だが、辛抱強く前を進めば道は開ける、とかそんな意味だと僕は解釈してる。僕はこの言葉を胸にここまでのし上がってきた。若い内の辛抱は必ず後になって役に立つ時が来る。僕を信じてくれ。今この会社はとても大事な時なんだ。急に大きくしてしまった影響で色々追いついていけないところがあってね。その分従業員にしわ寄せがきてしまうことについては頭を下げるしかない。だけどその分給料はきっちり保証する。三年たったら主任で仕事量は必ず軽減させるから。とにかくよろしく頼む」そう言って、社長は新入社員の若造に頭を下げた。正直に頭を下げられ、その時は信用できる男だと思った。たった三年でそこまで会社を大きくしたというのは、やり手なんだろうとも思ったし。
僕は社長のいう通り馬車馬のように働いた。毎日が終電、ひどい時になると朝方まで働き、小一時間仮眠し、次の日も通常勤務でぶっ通しで働くなどといったこともざらにあった。定期の仕事を抱えながら、それ以外にも次々と営業が納期のない仕事を安請け合いして取って来て、制作部に持ってきた。
だがそれも社長の指示の下で営業は仕事を取ってきているのであって、文句を言えるものでもなかった。営業の連中も必死になって仕事を取ってきているのだと。制作と営業は時に一触即発状態になることもままあったが、制作側が折れざるを得ないのは仕方ないことだと僕は思っていた。
とはいうものの、遅くとも明朝一番に印刷部に入稿しなければいけない仕事の原稿がいつまでも入らず、深夜遅くにになってようやく到着するというような仕事の対応には、さすがに堪えた。そしてそんな仕事が常態化していった。
クライアントとすれば情報は新しければ新しい程よいということで、原稿は常に遅れ気味になるのは当然とされ、もしくはそんな激務に対応できる会社を求めて、その会社に仕事が持ち込まれるということらしかった。
時間に追われながら黙々と働くのが毎日になった。休日出勤も常態化し、日々の大半をオフィスのパソコンに張り付いて過ごすうちに自分がブロイラーにでもなった気がしてきた。そんな気持ちを覚えはじめた頃から体調に異変が生じはじめていた。会社に入って三年はおろか、まだ、三ヵ月しか経ってない頃だ。
僕は極度の偏頭痛に悩まされるようになっていた。頭の一部分がきりきりと刺すように痛み出したのだ。しかしそれは僕だけではなく、同僚達も神経性潰瘍やら円形脱毛症、肺気胸、それに軽い鬱病を患っていて、「野戦病院みたいだよな」と自嘲気味に病気自慢をしていた。
だが軽口の病気自慢をしている内はまだましだった。その内に誰も喋らなくなった。僕もどんどん無口になっていった。母親譲りで何でも口に出してしまう方の僕が。
コミュニケーションが途絶えると、世界はどんどん縮小していくように感じられ、それはもう社会ですらなかった。孤立した人間がたまたま複数同じ場所にいるだけの、そうやはりブロイラーみたいなものだった。
皆がみんなやばいと感じはじめたし、従業員の出入りが激しく、さすがに僕も妙な会社に入っちまったのかもしれないと頭によぎるが、何故か逃げ出すことができなくなっていた。
とにかく僕は今考えれば人でなしの電車に揺られて、人でなしの会社で働き続けた。「三年。とにかく三年我慢して頑張ろう」と。
それに働くということは、それ自体が美徳なのだと本当にそう思ってたし。それもこれも働き者の親父の背を見て育ったからかもしれないのだが。
今から考えれば、その考えが人でなしの会社に都合良く使われたということになるのだが、その時はそんなこと考えもしなかった。
当然、家は寝に帰るだけの場所になり、静香とも関係が希薄になっていった。たまの休みも一日中ベッドから出られなくなっていった。
静香は僕に「大丈夫?」と聞くので、僕は「大丈夫」と答える。もう一体何度「大丈夫?」と聞かれただろう。だけどその度に「大丈夫」と答えていた。「休みなんだから何処かに行こうよ」とも何度となく誘ってくるのだが、とにかくそんな気力は全くといっていい程なくなっていた。
「人生潰してどうすんの?いくらなんでもひどすぎよその会社。絶対辞めた方がいい」
静香は僕に重ねて助言し忠告してくれたが、当時の僕は全くと言っていい程聞く耳を持たなかった。
「三年、三年頑張ると開けるはずだから、君も我慢してよ」
静香はただ呆れて、一人で出かけてしまうようになった。折角の休みに僕は家に取り残され、一日中ベッドで偏頭痛と闘いながらぼーっとしていた。いつからか分からないが、縁の下に住み着いていた猫が鳴いていた。野良にしては随分懐いた猫で、静香が餌をやっていたのを知っている。静香の見立てだとお腹に子供を宿しているらしい。元来僕も猫好きだったし、頭の中で「餌あげなくっちゃ」という言葉が何度も繰り返されるのだが、結局餌をやるでもなくぼーっと鳴き声を聞いていた。
三年どころではなかった。僕は三月もしない内に少しずつ壊れはじめていったのだ。
そして致命的な日がやってきた。会社に入って丸一年経ってのこと、そう丁度一週間前の今日のことだった。いつもの朝のように駅に向かっていた。冬だというのに朝日が鬱陶しく僕に纏(まと)わりついていた。日本のロックの創生期の頃の曲に「朝から太陽気に入らねえ」という詩があったのを思い出し、全くその通りだと頷きながら冬枯れした桜並木の坂道を上っていた。いくら寝ても疲れは抜けず、駅までの足取りはいつにも増して重かった。
それでも駅に辿り着き下りのエスカレーターに乗ると、いつものようにあの忌わしいエンドレスの注意喚起のアナウンスが流れている。ただただ空疎に響き続けるアナウンス。僕はこの過剰な注意喚起放送が洗脳音楽みたいで死ぬほど嫌いだった。早いところヘッドフォンをかけ、音楽で耳を塞ごうとスマホを動かそうとしたのだが、あろうことかスマホは充電を忘れて動かないのだった。唖然とし狼狽(うろた)え、ほとほと困惑し頭を抱えた。いまさら家に戻って充電し直すわけにもいかず、とにもかくにも観念して電車に乗り込んだ。
作品名:サイバードリーミーホリデイズ 作家名:ふじもとじゅんいち