サイバードリーミーホリデイズ
この雨戸に開けられた十五センチ程の隙間だけが、唯一私と外界が繋がる、文字通りの窓の役目になっていた。そこから見える風景はテレビやらネットにはない、唯一手を加えられていない嘘偽りのない世界だった。時折聞こえる子供達の遊び声、自動車のエンジン音、雀やカラスの鳴き声、木々の揺らぎ、雨、雨音、刻々と変わる陽射し、雲の流れ……そんなものを見たり聞いたりすることで、現実の世界と同時代で繋がっているのを感じ、まだ自分は生きているのだと安堵してきた。五十年前入室した時に僅かに開けたこの隙間は、その時以来のものだ。眼下に見える町並みも随分変わったし、様々な家が建て替えられ、人が引っ越して行ったり引っ越して来たり、または死んだり生まれたりと、住んでいる人間も随分変わったことであろう。五十年という月日とはそういうものだ。であるのにこの私だけが一人取り残されたかのように、この部屋に陣取っていると考えると、いよいよ奇妙な気分になった。
ふと、この部屋に籠ることになった五十年前のはじめての夜を突然思い出す。何でそんなことを今さら思い出すのかもよく分からなかったのだが。あの夜もこんな風にこの隙間から街並みを覗いていた。照らすべき外灯が切れていて街並みはひどく暗かったが、僅かな月明りの中、夕食を届けてくれた母がマンションから出ていき、ほんの一瞬立ち止まり、八階のこの部屋を見上げて立ち去って行ったあの夜を。表情が判別できるわけでもなかったが、振り返った母の後姿は明らかに肩を落とし、少し震えているようにも見え、そもそも小さい体がより一層小さく寂し気に見えた。あの時感じた切なさが今一度去来するが、そんな感傷も刹那、遠い昔のことだと、砂漠に落ちた数滴の水が乾いた風にあっさり浚(さら)われて行くように消え去った。しかしあの時、それから五十年、一度として外に出ず引き籠り続けるだろうとは、自分自身も思わなかったわけだが。
引き籠るきっかけとなったのは、学校でのいじめが原因だったのだが、今となっては思い出すのも面倒くさいし、どうでもいい後景の一つでしかない。
そもそも小学生の頃から集団生活になじむ方ではなかったのだが、中学に入ってからもそれは変わらず、その上、少し潔癖症なところも手伝って、クラスでは少しずつ浮いた存在になっていった。夏休みが明けた九月半ばの頃だったか、体育の授業が終わって教室に戻ると、私の制服のブレザーとズボンが床に散乱していて、誰かに踏みつけられて白く埃だらけになっていたことがあった。私が潔癖症で通学バッグ一つ床に置かないことに、何故か面白く思ってない奴らの嫌がらせだろうことはすぐに想像がついた。こちらとしたら何がいけないのかさっぱりわからなかった。汚れてしまった制服をとても着る気にはなれず体操着のまま授業を受け、教師から理由を聞かれたが(その教師も集団になじまない私をどこか遠ざけようとしている奴だったが)言う気にもなれず、そのまま授業を受け続けた。いじめはその後もずっと続いた。最後は何十匹ものゴキブリの死骸を鞄に入れられて気が狂いそうになった。鞄ごと捨て、それ以来学校に行くことはなくなった。
私の父は開業医をしていて家は裕福だった。が、父は息子である私には全く関心を示さなかった。何度となく復学しろと説教はしたが、その理由にしたって私の安否やら将来を心配するといったことより、引き籠ったことからあらぬ穿鑿(せんさく)をされ、近所の噂話になっていることを気にしてのことの方が大きように感じられた。おそらく私はそんな父の愛情の欠片もない(そう感じ取っていた)説教に反撥し、むしろ一層頑なにさせ、私は部屋に籠り続けた。それから一年程経ったか、いよいよ世間体を気にしはじめた父は、とても意味のあることとは思えないのだが「息子は知り合いのいるオーストラリアに留学させた。学校教育は日本には任せられんよ」と妙な理屈をつけ、自宅から歩いて二十分程の所にあった、その当時できたばかりのこのマンションを私に買い与えたのだった。近くにいるだけで目障りな存在だった私を、自分から遠ざける理由のようなものが必要だったということなのだろう。それに数年もすれば自宅に戻り、マンション自体も資産運用にでもしようなどと考えていたに違いない。
しかし「オーストラリアに留学」したことになったはずの私が、もし突然表に出たくなってふらふら歩き回り誰かに目撃されたとしたら、父はどう言い訳をしたのだろうかとその当時思ったものだが、結局私は一歩としてその部屋を出ることはなかった。もっともそれから五十年、籠り続けるとは父も思いもよらなかっただろうから、当てが外れたということだ。
母はごく普通に息子に愛情を注ぐ優しい人だった。引き籠りはじめてから精神科医やらカウンセラーやらを寄越し、何とか社会復帰させようとした。だが私は全て拒否した。閉じこもれば閉じこもる程に「閉じこもっている可哀そうな私」をアピールしたかったのかもしれない。だが気が付けばアピールがどうとか関係なく、本当に外に出られなくなっていた。誰がどう施そうとも外に出るのが怖くなってしまったのだ。ただ、欲しいものは何でも勝ってくれたし届けてくれた。年頃になって、パソコンもインターネットもスマホも、全て不憫に思っていた母親が与えてくれたものだ。いずれはこの部屋から出る、その時のためを思って何とか社会に取り残されないようにという、母の想いであり同時に願いだったのだと思う。だが結局その願いは叶わず母は死んだ。
それにしても五十年間も籠り続けられたのは絵が好きで、絵を描き続けたからこそできたのだし、そうなってしまったとも言える。
子供の頃から絵を描くのが好きだった。絵を描くというのは自分だけの世界が一枚一枚描けば描く程に、どんどん拡張していくような感じがして何とも心地よかった。何より自分一人でできる作業であるわけだし。もし、普通に学校生活を送れていたなら美大にでも行って、イラストレーターにでもなっていたかもしれないと少し思うが、絵なんていうものは目の前にあるものをどう感じたか、心の中に浮かんだものをそのまま絵にすればいいだけの話だと思っていたので、実際のところはよくわからない。
もっとも私が描いた絵は、写実画だったのはほんの描きはじめの頃だけで、どんどん崩れていき、子供の頃でさえすでに暗い抽象画ばかり描くようになっていた。そんな私が描いた絵を見て、両親は「またこんな気持ちの悪い絵を描いて」と絵もそうだし、そんな絵を描く私自体を気味悪がった。それでも絵を描いている時だけは、時間を忘れ自分を保ち続けることができたのだ。
それにしても今日来ることになっている三人と私はどう接すればいいのだろう。一年前死んだ母親と、あと弁当屋だとか、宅配便の配達人と玄関先で事務的な応対をする以外、人とまともに話すことなどこの五十年ほとんどなかったわけで、もう会話の仕方など本当に忘れてしまった。
作品名:サイバードリーミーホリデイズ 作家名:ふじもとじゅんいち