サイバードリーミーホリデイズ
誰もが今夜九時に一体何が起こるのかという、漠然とした不安と期待の高まりを抑えられずにいる。そもそも政府は「軍事機能が停止した」ということを明確に否定さえしていないのだ。明確に否定できずに沈黙している状態こそ、むしろ「軍事機能が停止した」ことを逆に示している証左ではないのかと人々は薄々感じはじめていた。すなわち<わたしたち>のメッセージが信じうるものなのではないかと。だが一方で「軍隊の無力化した世界」というほとんど空想的で不安定に思える世界についてうまく想像できず、思考は停止している。
恵理子は猪口の酒を傾けると立ち上がり、澄まし汁の雑煮をお椀によそい、克彦に差し出した。
「はい我が家の雑煮」
「久しぶりだな雑煮なんて食べるの。これは東京風なんすか?うちの方ではハゼが入ってるんすよね。でもこれも美味い」
克彦は餅を食いちぎり、満足そうに食している。
「しかし、<わたしたち>が言うアメリカもロシアも核兵器が発射できない世の中って、何かまじ凄いっすよね。それがたった一夜ですよ。徐々にとかじゃなくて。ぶったまげますよね、そりゃ。両方がないんならそれでいいんじゃないんすかね?それともそんな単純な話でもないのか……」
恵理子はちらりと克彦の顔を覗き、雑煮の椀をテーブルに戻した。
「いいのよ、単純な話で。単純すぎる話は疑って複雑に考え直す。複雑すぎる話は立ち戻って単純に考え直す。それでいいの。何がどうなってるのかよく分からないけど、わたしは諸手を挙げて賛成だね。ざまあみろだよ。くだらんものに金かけるなって。金かけなきゃいけないところなんか他にいくらでもあるだろうにさ。」
「恵理子さん過激っすね」
「過激でも何でもないの。だいたい、核兵器なんて今さら過去の遺物みたいなものでしょうに。たった一発の爆弾で何十万何百万という人が死ぬわけよね。そんな非人道的な兵器のボタンを一体全体押せるような指導者が今いると思う?正真正銘の狂気よ、そんなボタン押せるなんて。ヒットラーに勝るとも劣らない二十一世紀最悪、いや『人類史上最凶最悪の大虐殺者』の政治家として後世に名を残すことになるわけよね?それって。そんな汚名を誰も背負えるわけもない。だから逆説的に絶対に押せないボタンなわけ。それにね、維持費だって莫大にかかるのよ、あれ。要するに無用の長物なの、あんなもの。ほんとは厄介払いしたい、それなのに自分からは手を挙げることはできない。いい機会じゃないか。あの<わたしたち>の言う通りならば、これを機になくしちゃいいのよ」
分かってるんだか分かってないんだかよく分からないが、克彦は恵理子に圧倒されて、首を小刻みに縦に振っている。
「そうは言っても米軍のコンピューターシステムって、そんな簡単に侵入できる程脆弱(やわ)なもんなのかねえ?その辺がちょっと腑に落ちないところだけど。確かにねえ、さっきの馬鹿そうなコメンテーターが言ってたようにアメリカもロシアもこのまま黙ってるともさすがに思えないんだけどねえ。どうなんだろ?……」
窓からインディアンサマーの日差しが二人を包んでいる。
「で、故郷(くに)に帰る気にはなったのかい?あんたが勝手に帰れないと思ってる理由なんか、向こうは多分何とも思ってないものよ。ちょこっと小言言ってそれでお終い。多分そんなもの」
克彦は重箱から車海老を取り出し殻を毟(むし)り取っていた手を休め、おしぼりで手を拭いて、神妙に言う。「ええ、まあ。そうなんすよね……それで……相談が……」
「金だろ。貸してやるよ。だけど必ず返すんだよ。五万ワールドコインもあればいいかい?」
「何から何まですんません。もちろん絶対に返します!俺昨日、間違いなく恵理子さんに拾われてなければ死んでたと思う。それが今、こんな旨い車海老食って、酒飲んで……感謝してもしきれないすよ」
「感謝なんていいのよ、そんなもの。私も元旦の朝一人でいるよりよかったしね。これも何かの縁だし。あんたも運があったってことよ。その代わり、塩竃に戻ったら帰ったという証拠として、塩竃と分かる背景で自撮り写真をメールすること。それが条件。いいね」
恵理子がそう言うと、こくりと克彦は頷いた。
「それとね、私は食事終えたら、ひと眠り昼寝でもしようと思ってるから、その間にそっといなくなっててね。元旦の夜は娘夫婦と孫娘が来ることになってて、色々準備しなければいけないから、それまでに一休みしたいんでね」
「特にねえ、燗酒飲むと体が怠くなるのよね。あなたは好きなだけ食べてってね」
恵理子は立ち上がりソファーに向かった。克彦は恵理子の後ろ姿を見ながら頷き、徳利に残っていた最後の酒を猪口に注いだ。
夕方六時。恵理子の部屋には娘夫婦のジェシカと草介、孫の怜奈がやって来て円形のダイニングテーブルを囲んでいた。元旦の夜は決まって、恵理子の家に集まりステーキを食べるのがここ数年の習わしになっているのだった。空豆のポタージュスープ、白アスパラとツナの入ったグリーンサラダ、それにフライドポテト、肉はアルゼンチン産の赤身肉、一人三百グラム。ミディアムレアに焼き上がり、岩塩とブラックペッパーが程よく肉を引き立てており、口々に「美味い!」「美味しいよねえ」と幸せそうに肉を頬張らせている。ワインはチリ産の自転車のラベルが素敵な「コノスル」が、アイスワインクーラーに二本入っている。部屋にはカーメン・マクレエがバラードを所在無げに歌っている。
「このナイフとフォークっていうやつ。これまさに肉を食べるために発展した道具なわけだろ?フォークは爪の発展形で、ナイフは牙の代わりっていうわけね」
と恵理子がナイフで肉を切りながら言うと、
「成程ね。上手いこと言うね、おばあちゃん。じゃあお箸は」
「箸は指が延長したものって感じがするよね?」
と今度はジェシカが答えた。
「しかしこういうぶ厚いステーキ肉を爪と牙で食べてると思うと何か野蛮でいいだろ?」
恵理子が笑いながら言い肉を頬張った。ガツガツと食器とナイフが擦る音や、ワイングラスにワインが注がれる音が部屋に響いている。
「ところで、ほら、あのメッセージのなかで、パソコンの乗っ取りだの何とかボムだとか、よく分からないこと言ってたけど、ハッカーとかそういうの怜奈あんた詳しかったよね?」
「まあ専門分野だけど……でもさっきそれテレビでも一応説明してたんだけどね」
まあいいか、と怜奈は話しはじめた
作品名:サイバードリーミーホリデイズ 作家名:ふじもとじゅんいち