サイバードリーミーホリデイズ
心残りというのではないけど、正直静香には申し訳ないとは思っている。もっとも最近めっきり会話も減っちまったけど。ただ静香も働いているし、まだ若いんだからまたまともな男でも見つければいい。最高にいい奴なんだから、男がほっとかないに違いない。保険金だって、免責期間なんてとっくに過ぎているのだから、たとえ自殺だったとしても下りるだろうし。
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<RAIN>こと雨宮紀子は、インターネットカフェの個室の中、青白いLED電球に照らされながら、一人蹲(うずくま)っていた。波状的に襲ってくる躁と鬱。今は激しい鬱状態のなかにいる。
「もう少しで出かけなきゃいけないのに。この格好で電車に乗るのも、考えるだけで気が滅入ってくる。だけどそろそろ出ないと遅れちゃうよな……」
と弱々しく一人呟いている。それにしたって、思い出したくもない自分を捨てた男の記憶が執拗に紀子を追いかけてきている。
ティッシュペーパーを無造作に2、3枚取り出しちーんと思いっきり鼻をかみ、リクライニングチェアーの背もたれを調整して座り直すと、「何でこんなんなっちゃったんだろう?」と口に出してみる。今日だけで十回は言ってる気がする。もはや口癖みたいになってる。二週間前家を追い出されてホームレスになった。最後に放り投げるように孝志に渡された二万円は今日ここを清算して、電車賃使うと正真正銘の一文無し。きれいさっぱりお金が無くなるけど、まあどの道あの世にお金を持っていけるわけじゃないしね。サラ金はとっくにブラックリストに入ってるみたいで、どこも貸してくれないし。二日に一度はネットカフェでシャワー浴びてるけど、着た切りのジャージは洗濯できないから自分でも臭うの分かるし、だからネカフェのフロントがあからさまに嫌な顔するようになった。惨めったらしくて死にたくなる。ちょっと前まで、頭からつま先までブランドで固めてた金ぴか紀子ちゃんがですよ。だけど、それも今日でお終い。み〜んなみんな今日でオサラバ。あと三時間ぐらいの命。未練も何もありません。だけどこの後に及んで風邪までこじらせて鼻水が止まらないし、ほんとサイテー。
私は子供の頃から、あんまり要領はよくないし、勉強もできない方だったし、だけど明るさだけは取り柄で、小・中・高とやり過ごせた気がする。短大出て、化粧品会社のOLになったのも、何となくレールに乗れてそこに辿り着いた、そんな感じ。特別な能力もないし、だから主人の孝志から結婚申し込まれた時も「私なんかでいいのかな」って本当にそう思ったぐらい。
頼るべき実家はあるにはあるんだけど、埼玉の蕨って所に。両親と兄夫婦と子供が二人住んでいる。だから帰っても居場所があるわけではない。それに多重債務で首が回らない今の私にどんな顔して会えばいいのか考えると、結局連絡一つできなくなった。むしろ実家からは何度か電話があった。だけど出られなかった、敢えて出なかった。正月も近いし心配してるのかなと考えると辛かった……
あー、それもこれもみ〜んな孝志のせい。あいつが私を追い出すから。いっそのことマンションのあの部屋に火でもつけてくりゃよかった。まあそれは冗談だけど。だけど今となってはどうでもいい。何故なら今日でこの世ともお別れにするから。
孝志とは二十九の時、合コンで知り合って、あっさり結婚した。向こうは確か三十七でお互いが焦ってたっていうのもあったけど。私は何というか、あんまり上昇志向とかなかったし、男と競い合ってぶいぶい仕事するタイプじゃないから、正直お前も働けなんて言われなくてラッキーって思うぐらいだった。だからすんなり専業主婦に収まったってわけ。孝志の収入もよかったし、生活は楽だった。そんな私だから、家事だけはちゃんとやってたつもり。で、確か三年ぐらい経った頃だったかな、孝志が変わり出したのは。会社の部署替えみたいのがあって、上司が代わったのが原因らしいんだけど。その上司というのが、あくまで孝志が言うにはだけど、無能なくせに口やかましい、時には機嫌が悪いってだけで、部下に怒鳴り散らすなんてのが日常茶飯だったみたい。それにしたって、上司ができる方で、できの悪い孝志を怒ってたって可能性だって本当はあるかもしれない。私は両方の言い分聞いてるわけじゃないからね。だけど、その頃から孝志は私に対して、少しずつだけど家事に難癖つけはじめて、ビールグラスが磨かれてないだの、テレビ台に埃が溜まってるだの、冷蔵庫にエノキの瓶詰が切れてるだの、ワイシャツのアイロンかけが甘いだの、新しく買ったシャンプーの銘柄が違うだの難癖つけてきて、少しでも口答えしようとすると殴るようになったわけ。はじめは手のひらだったのが、段々げんこになってきて……。私は父親にだって手をあげられたことがなかったから、もう怖くなって泣いて謝った。私が悪くないのに。そういうことがあると、数日口をきいてくれないんだけど、それでも最初の頃は、「殴ってごめんな。お詫びに週末美味しいものでも食べに行こうよ」とか甘いこといって、ご機嫌取ったりしてくるわけ。だけどまた何日か経つと暴力がはじまる。まるで会社の憂さでも晴らすかのように。お腹に蹴りが入った時なんか、苦しくて死んじゃうんじゃないかと思うぐらいだった。それでもまた何日か経つと優しい言葉をかけてきて仲直りして、そんなことの繰り返し。何で仲直りしに来るのかといえばきっと私に逃げられたら困るからなんだと思う。だってラーメン一つも自分じゃ作れないような奴だからね、孝志は。私に逃げられちゃ食事も満足に食べられなくなるし、ワイシャツだってよれよれになるわけだしね。
あんなDV野郎だけど、いい時もあったんだよな。今となっては信じられないけど。付き合いはじめた頃、孝志は渓流釣りが好きで、よく奥多摩に一緒に行ったっけ。下手くそな私の方が先に釣れたりしてもあの頃は「すげーじゃん」とか言ってにこにこしてたのに。
だけどまあとにかく、人が変わったかのように暴力はずっと続いた。そういう私だって、特に手に職を持ってるわけじゃないから、ほっぽり出されたら路頭に迷うわけだし、だからずっと我慢してきた。いつも体のどこかに青痣かかえて、唇腫らしたりしているのに、肋骨だって何回もひびが入ったし。肋骨が折れると本当に何をしても痛い、くしゃみしても咳をしても痛い。泣きたくなるぐらい痛いのに、治しようがないから自然治癒をただ待つだけ。あれ本当に辛い。それでも逃げられなかったというのが本当の話。
暴力がはじまって三年ぐらいたったかしら。私の買い物狂いがはじまったのは。あいつに殴られた次の日、腹いせというか気分晴らしにショッピングに行ったわけ。一番はじめはエルメスのバッグだったかな。それがもう快感なわけ。実を言うとそれまでブランド品なんかにそれ程興味があったわけじゃなかったのに。オシャレをするのは人並みに好きだったけど。とにかく殴られるたびにショッピングに行くようになって憂さを晴らしたってわけ。
作品名:サイバードリーミーホリデイズ 作家名:ふじもとじゅんいち