切り札
そうそう、彼女とは仲直りをしたのだ。と言っても、いまだに自分の何が彼女を怒らせたのかわからない。だから、仲直り、という表現はおかしい。けれど、僕はまあそういうことはどうでもよくて、ある日突然彼女からLINEが来て、こうして彼女と仲良くデートが出来て、という事実だけで幸せなのである。
「パンケーキとホットケーキって何が違うんだろうね」
僕は彼女に尋ねた。
「材料が違うのかしら。生地が違うって聞いたことはあるけれど、でも、はっきりとは知らないわ」
彼女はそう言って、髪を耳にかけた。何度も言うが、僕の好きな仕草だ。
しばらくして店員がパンケーキを持ってきた。
「フルーツパンケーキとバターハニーパンケーキです」
「え?」
僕の声は小さく漏れた。だから、誰の耳にも届かなかった。
「お飲み物は食後でよろしかったでしょうか?」
「あ……はい。いや、今持ってきてください」
「かしこまりました」
店員が去って、彼女がためらいがちに口を開いた。
「たけちゃんさあ、店員さんオーダー間違ったよね? アップルシナモンケーキじゃなかったっけ、頼んだの」
「うん……そう」
彼女から目をそらした僕。首の後ろをかくふりして、爪を皮膚に押しつけ、爪痕を残した。痛みが体中を駆け巡った。これは僕の儀式の一つ。
「じゃあ、オーダー違いますよって言えばいいじゃん。なんで言わないの」
「いや、なんかまあ、いいかなって。だって、また作り直したりとかさ、もしかしたら店員さん、ペナルティとかさ、なんかあったりしたら可哀想じゃん」
店員が飲み物を持ってきた。彼女が僕に目で促す。
「あの……」
「はい?」
店員は、まるでハワイでずーっと楽しく暮らしてきました、と言わんばかりに快活でビッグスマイルだった。
「いや、ありがとうございます」
僕が言えるのはそこまでだった。店員は陽気な足取りで戻っていった。
「もう。なんかそういう弱気なところというかねえ」
彼女は器用にパンケーキを切り始めた。
「嫌い?」
「いや、別に。がつがつ文句言うよりはいいと思うよ」
彼女の口にパンケーキが入っていく。僕はほっとして、ナイフとフォークを手に取った。
「けれど、たまにはね」
「たまには?」
「強気にいってほしいなあ、というか……」
「というか?」
聞く一方である。
「相手のことを考えすぎなところは治して欲しいなあ。それよりも自分のことを考えるべき、というか、自分の意見を持って欲しいというか」
「はあ」
「たっくん、アップルシナモン食べたかったんでしょ? なら、自分の食べたい意志を貫いて欲しい。いや、これってパンケーキを例にしているから、なんかせこい話みたいに聞こえるかも知れないけれど。これが大きな買い物だったり、就職だったり、人生の転機みたいなときだったら」
「そういう時は言うよ。はっきりと」
「そう? そうかしら。こういうときはこう、ああいうときはそう、ってなかなか難しいと思うのよ、わたし。一貫性って大事と思うのよね」
一貫性。そう、大事なのは一貫性だ。ぶれてしまうとろくなことがない。
「さ、食べましょう。たっくんのパンケーキちょっとちょうだいね」
彼女は僕のパンケーキにフォークを突き刺した。
4.
春の天気はめまぐるしい。満開だった桜の花は「花に風」の言葉があるとおり、強風により桜の木から身ぐるみ剝がされてしまった。そして「月に叢雲」という言葉があるとおり、最近は曇りがちで、すっきりとしない天気が続いていた。
家に着いたのは、午前3時前だった。昨日は武のアパートで日本代表のサッカーの試合を見た。他にも二人友達が来ていたが、そいつらはみんな武の家に泊まっていった。
「泊まっていけばいいじゃん」
と僕も武に誘われたが、そうはいかなかった。
その夜、「俺の寝巻き」と言いながら、武は高校時代のバスケ部のユニフォームに着替えた。「なんか落ち着くんだよね」と言いながら。テカテカの安っぽい布地で笑えたが、笑えたのはそこまでだった。
「おまえのユニフォーム、変な色だなあ。ピンクなんて男子が使う色かよ、普通」
ゼミで一緒の本田が笑った。緑地にピンクのラインのユニフォーム。
直感は働かなくてもいいときに働く。点と点がつながり線となり、それが面となり、立体となり、僕が抱えきれないほどの大きさになった。首の後ろをかくふりして、爪を皮膚に押しつけ、爪痕を残した。そう、記憶を確実に海馬に残すための僕の儀式。
「ちょっと具合悪くなったから帰るわ」
本当にそう見えただろう。
「じゃあ、余計泊まっていけよ。歩いて30分はかかるだろう?」
「いや、自分の枕で寝たいタイプなんだよ、僕は」
「そうだったっけ? まあいいや。気をつけて」
眠いのか、面倒くさいのか、誰も僕を無理に引き留めはしなかった。僕は武の家から出て、丑三つ時の住宅街をとぼとぼ歩いて帰った。冷静に、ここ数日のことを思い返しながら……。
5.
「ねえ、お昼、何食べようか?」
僕は彼女と街の中心部をぶらぶらしていた。梅雨入り前の、散歩にうってつけの朗らかな昼下がり。彼女の白いスカートがまぶしく見えた。
「えーと、ラーメン? 蕎麦もいいし、とんかつもいいなあ」
僕はさっきからずーっと違うことを考えていて、とあるタイミングをうかがっていたから、お昼に何を食べようかなんて全く興味がなかった。
「まるで、なんでもいいって感じね。もうちょっと、今日はこれ食べたい!とか、こだわりを見せてほしいよね」
「じゃあ、逆に何食べたいのか教えて」
「えー、わたし? わたしはどれでもいい」
どれでもいい、か。僕と同じじゃん。
「じゃあ、中華にしようか。担々麺がおいしい店あるからさ」
どっちでもいい彼女は、僕の提案にこくりと頷いたが、急に立ち止まって言った。結構往来の激しい通りで急に止まるもんだから、何人かにぶつかってしまった。
「久しぶりのデートで、こうやってオシャレしてきてるんだから、担々麺はないわよねえ」
「え?」
「なんか雰囲気というか、ムードというか、そういうの読んで欲しいのよねえ。たっくん、そういうところ足りない」
来たか。やっとタイミングが来たか。担々麺の何が悪いんだ。ちょっとむっとした顔をして、僕はさっさと前を歩いた。
「ねえ、どうしたの? 怒った?」
「ちょっと、ね」
束の間の沈黙。
「それぐらいで怒んないでよ、もう、たっくんたら……」
「あのさ、こないださ……」
さて、こっからが僕のターン、なはず。
「あのさ、こないださ、桜を見に行ったときさ」
「え? なんの話?」
「ちょっと歩きながら聞いてくれる?」
パンケーキの時よりは強気だ。
「堤川に桜を見に行ったとき、君は急に怒りだして、僕から離れて帰ってしまった。あとでLINEで謝ったけど、取り合ってくれないほど怒ってた」
「そういうこともあったわね。でも、今はもう忘れたわ」
「前にもそういうことあったから、なんか気に障ることしたかなあと反省しつつ、また時が過ぎれば仲直りできるかな、と思った」
「で、そのとおりになったわ」
彼女が急に腕を絡めてきた。
「そうだね。でも、はっきり言って君は怒ってなかった。なんにも」
「え?」