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切り札

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「怒ったふりをしていたんだ、君は」
「何を言ってるの?」
「あのとき、君はどうしても、僕から離れなければならなかった。ある人を見かけたからだ。そして、その人の前では、僕と一緒に手をつないで歩いてなんていられない」
「ちょっと……」
「だから、とっさに君は怒った。怒ったふりをして、僕から、そして、その場から離れることに成功した。あんなに早く歩くなんて、違和感があったんだ」
 彼女の腕がするっと抜けていった。
「君が見かけた人物とは、高校時代に緑地にピンクのラインが入ったユニフォームを着ていて、『たけちゃん』と呼ばれ、髪を耳にかける仕草が好きで、彼女がつまみ食いをよくするから俺もつまみ食いするようになった、って言ってる男だ。誰だかわかるよね」
 以前、武が見せてくれた武にとっての初めての彼女の写真は不鮮明だったが、ターコイズブルーのスカートを着た女性の後ろ姿が写っていた。
「写真は駄目、って言うからさ、隠し撮りだよ」
 なんて言う武の顔は、友人たちが心の中で思ったように、本当に付き合っているのかどうかわからないという不安がにじみ出ていた。武の隣に座っていた僕は僕で、別の不安が鎌首をもたげていたが。
 脳内で彼女の言葉がリフレインする。

 桜の薄桃色と葉っぱの緑は似合わない。そのとき彼女はこう言った。
「でも、たっくんが前に見せてくれた高校時代のバスケ部のユニフォームって、緑地にピンクのラインが入っていなかった?」
 店員が去って、彼女がためらいがちに口を開いた。
「たけちゃんさあ、店員さんオーダー間違ったよね? アップルシナモンケーキじゃなかったっけ、頼んだの」
「どこでその男と繋がりができたんだろう。何度考えてもわからないし、やっぱり今でもわからないけれど、こんなに続く偶然ってないよな、と思っている」
 彼女はさっきから黙ったままだ。僕の切り札が効いているようだ。彼女は図星なのか、口を真一文字に結び、困惑した表情で道路を見つめていた。さて、僕はここからどういう状況を望んでいるんだろうか。彼女の謝罪? そんなものを僕は聞きたいのだろうか? そもそも僕は彼女をどうしたいんだろうか。
「ねえ、何を言っているのかさっぱりわからないんだけど」
 彼女はキッと顔を上げて僕をにらみつけてきた。
「わからない? どうして? 何が? 」
「いや、だから、桜の話とか名前とか……。何を言っているのかさっぱりよ」
 今更わからないふりをしているのか。
「ねえ、それにどうしてそんなことを今言ったんですか?」
「どういう意味?」
 彼女の質問の意味がわからない。
「名前を間違えられたんですよね? ユニフォームも間違えられたんですよね? であれば、そのときに言えば済む話じゃないんですか? その時に言わないのって、何かあるんでしょうか?」
 完全に怒りモードの敬語体。
「あ、あり得ない間違えをされて、即座に言えなかったんだよ」
「ふーん、そうですか。パンケーキの時と同じですね。あなたは、『そのとき』に言わないんです。後から『あのパンケーキ間違えられたんだよなあ』とかさんざん悔やんで、ぐじぐじ小言を言ってしまうタイプです。あなたはそういう人間です」
 僕は反論しようとしたけれど、何も言葉が出てこなかった。
「それに、あなたは『そのとき』に言わないで、取っておいているんです。名前やユニフォームの話もそうです。あなたに負い目があったときに、私に反撃するためのネタとして取っておいたんです。今日も私に小言を言われて、私を懲らしめようとそのネタを披露したんです。そんな矮小な魂胆が見え見えです」
「な……なにがだよ」
 切り札が木っ端微塵に砕け散った。
「すいません。もうこれ以上あなたと一緒にいるのは無理です。人の気持ちなんてわからないんですもんね、あなたは」
「人の気持ちなんてわかるはずないだろ」
「だからこそ、わかろうとするのが人間です。いや、もう話をしたくありません。金輪際さようなら」
 早足で彼女が去って行く。どこかで見た光景だなあ、と僕は思う。そして、僕が悪かったんだろうか、と悩む。いやいや、彼女は浮気をしていて、僕はそれを問い詰めようとしたんだ。でも、まあ、なんというか、今になると浮気なんてどうでもよくなっていた。それよりも、彼女の指摘に納得してしまっている自分がいた。
 そうだよ、その通り。僕は、彼女がユニフォームを間違えようが、僕の名前を呼び間違えようが、「あえて」言わなかった。それは、いつしか「切り札」になると思ったから。
 でも、それは果たして「切り札」だったのか。「切り札」たり得ることだったのか。「切り札」を切ってみて最後に残ったのは、木っ端微塵に砕け散ったかっこ悪い僕だった。
 僕は途方に暮れ、しばらく本屋の前で立ちすくんだ。右から左から流れる人の波をぼーっと眺めながら。そして、今日のことは決して忘れないように、と僕は首の後ろに爪を立てた。

6.
 最後に後日談。
 自分ってこういう奴なんだ、と気づくのは、他人との交流が原点にあることが多いと最近思う。感情をぶつけ合ったり、比較してみて、自分のことがわかっていく。今回みたいな件なんて特にそうだ。その意味では、彼女にも武にも感謝している。
 自分を知ることが人生では大事なんだろう、と思う。でも、知るまでの過程が面倒になって、人と交わることがおっくうになり、手っ取り早く自分を知ることができないかと思う。だからこその占いだったり、千里眼だったりする。
 ということで、僕は今「大堀マッサージ店」へと向かっている。最近味わった感情の乱高下に整理を付けてくれるのは、「千里眼」しかないと思ったからだ。
 さあ、もっと自分がどういう人間なのかわからせてくれ。
 我ながら安易であるけれど、財布の中には二千円札もあるし、ね。
 目の前にうさんくさいログハウスのような建物が見えてきた。満を持して大堀マッサージ店に対峙する。
 そして、僕は思う。
 やっぱり世界はよく出来ている。タイミング、なのか、時の流れ、なのか、神様が僕の人生そのものをそうやって操っているのか知らないけれど、世界はよく出来ている。
 大堀マッサージ店の入り口には「閉店」の二文字が掲げられていた。
 千里眼の店が閉店か。
 さすがに今は笑い話にならないけれど、もうちょっと時間がたてば笑い話になるのだろう。
 僕は太陽が眩しく降り注ぐ商店街へ踵を返した。

 完了
作品名:切り札 作家名:青岳維鈴