短編集29(過去作品)
というと裕子は悲しそうな顔をした。裕子の悲しそうな表情を見るなどあまりなかったことで、少しビックリした。
元々、誰に対してもあまり表情を変えることのなかった裕子は、尾崎の前でだけは笑顔を見せながら笑って話をするようになった。
――この笑顔が見たかったんだ――
裕子と付き合うようになったきっかけはここにあった。彼女の顔を見ていると気持ちに余裕を持つことができる笑顔の持ち主であるという気がしてきたからだ。
実際に告白した時、我ながらビックリだった。女性に告白なんて今までの自分から信じられるものではない。だが、裕子は最初こそビックリしていたが、すぐに快く付き合ってくれたのだ。
「私でいいの? 私はあまり人を好きになったり、好きになられたりしたことないし、今まで男性とお付き合いなんて考えたこともないわ」
と最初は渋っていたが、
「君がいいんだ」
という一言でそこから先は心を開いてくれた。
他の人には決して見せない笑顔、それが自分だけのものになったという気持ちは、尾崎の中に征服感というのがあったことを認識させられた。ほとんどの男にはあるのだろうが、自分にそんなものはないだろうと思っていた尾崎はショックを感じていた。しかし、それが心地よく感じられるようになるまでに時間が掛からなかったのは、裕子の笑顔が最初感じていたよりも素敵に、そして眩しく感じられたからに違いない。
自分を愛してくれていると思った女性、裕子はどうして自分を避け始めたのだろう?
そればかりが気になってしまった。気になり始めるととことん気になってしまうのも尾崎の性格で、考えが袋小路に入り込むのを分かっていながら考えずにはいられないのだ。考えていないと不安だというのが一番の理由で、それ以外に理由が思い浮かばない。
――お互いに気を遣っているように見えて、どこかですれ違っているのではないだろうか――
そう考えると同じところにいてもお互いに気付かない世界、異次元の世界を感じてしまう。
小学生の頃に異次元の入り口というものを初めて意識したことがあった。
それは父親から親戚のおじさんを駅まで迎えに行ってほしいと言われた時のことで、今でもその時のことはハッキリと覚えている。
駅までの道は一本、他にも道がないわけではないが、いわゆる直線距離に近い道である。迷うはずもない。それを迎えにいけというのだから、何となく納得いかないまま家を出た。だが、表に出ると親の考えがすぐに分かった。空には曇天の厚い雲が横たわっていて、グレーのまだらが立体感を浮き立たせていた。
駅までは普通に歩いて二十分、近くはない。それだけに天気を心配したのだろう。親のいうことなので逆らえず駅へと向かったが、会えるはずのおじさんに会えないまま駅についてしまった。
――おかしいな――
列車の到着に間に合う時間ではない。
「途中で出会うはずだから、そうしたら一緒に帰っていらっしゃい」
時計を見ると電車の到着はあと十五分ほどだった。急げば間に合わないこともないだろうが、どうせ途中で出会えるのは分かっているのだから、急ぐ必要もない。ゆっくりと重い腰を上げるように家を出た。
最初から決まっていた予定ではないので、気は楽だったが、表の暑さには閉口してしまった。梅雨が明けたと思った瞬間、襲ってきた猛烈な暑さ。湿気が残っているだけに不快指数は時間とともにうなぎのぼりだ。
眩しい太陽を手で庇を作りながら歩いていると、田んぼの向こうに見える山が、まるで蜃気楼に浮かび上がっているように見える。今までにも暑い中を何度も駅に向かって歩くことはあったが、これほど幻めいた山を見るのは初めてだった。まわりに木や森があるわけではないのに、やたらとセミの声がうるさかったのが印象的だった。
駅に着いたが出会うはずのおじさんはどこにもいない。駅のホームにも待合室にもいなかった。電車が到着していることは、途中から線路沿いを歩くので、分かっている。それなのに見かけないとはどういうことだろう。
しばらくあたりを見渡してみたが、見つからない。仕方がなく二十分ほどで諦めて家路を急いだ。
駅まで来る時にはあれほど時間が掛かったにもかかわらず、帰りはその半分くらいの時間で着いたような気がしたのだ。確かに眩しい太陽を正面に見ながら歩いたわけではないので、多少の時間の感覚に差があっても不思議はないが、それにしても違いすぎるのである。
家に帰り着くとまず母親の甲高い声が響いてきた。
「あんた、どこを歩いていたの?」
尾崎が、あまりにも帰りが遅いことを心配してか、それともおじさんと会えなかったことを知っているのか、少しヒステリックな感じだった。しかしあまり心配しているという感じではなく、どちらかというと責めている口調である。
何とおじさんはすでに家まで来ていて、父親と談笑をしているではないか。顔が赤くなっていることからビールでも呑んでいたに違いない。
「毅くん、遅かったね。おじさんとっくに着いて、もうビールを呑み始めたよ」
とおじさんは見下ろすように軽く言った。まるであしらわれているようで癪な気分になったが、会えなかったことが不思議でならない。
――あのあたりにミステリーゾーンでもあるのかな?
とも考えたが、何度も行き来している道でこんなことは初めてである。
――それともおじさんは異次元の入り口を知っていて、時々行き来できるのではあるまいか――
と考えた。そう考えればあしらわれてしまった理由も成り立つし、自分が悪いわけではないと納得もできる。きっとそうなんだ……。
それからだろう、尾崎に異次元に対しての考えがまとまってきたのは……。
裕子が自分を避け始めた理由。それはきっと自分たちの性格があまりにも似すぎているので、いいところも悪いところもすべてが見えるからではないだろうか。尾崎自身も裕子の長所短所分かっているつもりだ。しかもそれが紙一重のところにあることも……。
理不尽なことが嫌いで、妥協を許さない裕子は、尾崎の中途半端なところが許せなくなってしまったに違いない。
だが、それだけお互いのことが分かっているから相手を好きになり、「恋」が「愛」に発展したと思っている尾崎の気持ちが分かるだけに怖くなってしまったのだろう。
特に異次元に対しての考え方が自分の中で確立されてきたことを感じている尾崎の考え方もかなり固まっているに違いない。しかも歪な形で固まっているのだ。そんな尾崎に対して怖くなる裕子の気持ちが分からなくもない。
しかし決定的なのは、裕子が女性だということだ。女性というものは、ギリギリまで我慢できるが、我慢の限度を超えると、そこから先は耐えられないものらしい。そのことに尾崎も気付いた。
ギリギリのところでの考え方、まさしく「紙一重」の考え方。それを最近尾崎は身にしみている。
きっと裕子はもう尾崎の前に彼女として現れることもないだろう……。
( 完 )
作品名:短編集29(過去作品) 作家名:森本晃次