短編集28(過去作品)
金属音と炎の中で
金属音と炎の中で
工場の煙突から黒鉛が上がっている。川のほとりでよく写生したことを思い出す。小学生の頃だっただろうか。いたるところに煙突が出ていて、いつも煙を吹き出していた。
煙の後を目で追いながら、
「どうしてまっすぐに上がって行かないんだろう?」
などと、友達と話したものだ。
風に揺られて左右に微妙に揺れている黒煙、遠くで見ているからいいのかも知れないが、近くに寄れば自然と咳き込んで、悪臭が漂っているのが、目に見えているようだ。
子供の頃というと、学校からの帰り道、河原の道を、煙突を見ながら歩いていたものだが、遊び場所も、廃墟になった家の空き地を使ったりしていた。塀だけが残っていて、建物は跡しかない。瓦礫のそばには水道管が途中まであったりしていて、まるで空襲にあった跡のように感じた。
もちろん、実際の空襲など知っているわけではない。しかし空き地の存在をずっと前から知っていたので、社会科の授業の時など、教科書に載っている空襲の跡の街の写真などを見ると、すぐ頭に空き地が浮かんできたりしたものだ。
どこからともなく匂ってくる絵の具のような匂い、嫌いではなかった。友達の中には露骨に嫌がる人も多かったが、私はそれほどでもない。
「こんな匂いを嗅いでいたら、それだけで病気になってしまう」
そんな心配を学校の先生は本気でしてくれた。自分のこともさるとながら、子供たちの健康のことを真剣に考えて教育委員会や、自治体に赴いては抗議していたようである。そんな先生を親たちは信頼していたようで、噂好きの人たちの中でも、先生の悪口が出てきたことは一度もなかった。
しかしそんな先生も半年もしないうちにどこかへ行ってしまった。いわゆる左遷と言われるもののようであったが、子供の私たちに分かるわけもなかった。しかし親たちの、
「いい先生だったのにね、残念ですわ」
という声が無性に虚しく私の中で響いていた。
しかし、それもしばらくの間だけだった。すぐに先生の話題が出ることもなくなり、それこそ、本当にいたのかを疑いたくなるほど、誰も話題にすることはなかった。
――実績が残らなければ忘れられていくんだな――
子供心でそこまで考えたかどうか定かではないが、実に悲しい。
「なかなか、いい先生は現われないな」
友達の中には、そんな言葉をいうやつもいた。彼の頭の中にがんばってくれた先生のことがあったかどうか分からない。だがきっと、先生を意識しての言葉だったと信じたい。
嫌な匂いは夕暮れ時の空腹時を思い出させてくれる。空き地からの帰り道、川の横を通るのだが、川に写った夕焼けに虚脱感を感じていた。そんな時、近くの家から香ってくる夕食を作る匂いが思い出されて、いつもハンバーグを想像していた。そんな中でのシンナーの匂い、嫌いなはずなのに思い出されるのは、一緒に感じたハンバーグの香りを感じているからだろう。
足が棒のように重たかった。小学生時代といえば、少々遊んでも疲れの残らない時期、確かに遊び終わって帰り始める時はそれほど疲れを感じていないのだが、シンナーの香りともに香ってくるハンバーグの香りが、一気に脱力感へと誘うのだ。
眠気も感じてくる時間である。身体にへばりついている汗が気持ち悪く、風呂に入りたいと思うのだが、それよりも眠ってしまいたいと感じることの方が多かったようにも感じる。
家は一軒家だったが、それほど裕福な家庭ではなかった。中流階級の普通の家庭、父親も仕事が終わって残業することもなく、午後七時にはいつも帰宅していた。
父親が帰ってくるとすぐに分かった。背広から染み出してくるようなタバコの匂い。それほど嫌いではなかった。
――これこそが大人の男性の香りなんだ――
と思っていたからである。
今ではどこもかしこも禁煙コーナーが増え、喫煙者が肩身の狭い思いをしているが、その間にタバコをやめた者も多かったことだろう。私の父もその仲間である。元々タバコを吸おうなどと考えたことのない私は、きっと父の影響が大きかったのだ。
――百害あって一利なし――
と言われるとおり、タバコを嫌う人物が増えてきたのだろう。
しかし、子供の頃はタバコの匂いこそが父親の匂いと思っていたことも事実で、どうしてここまでタバコを嫌悪するようになったかも疑問である。あの頃はくわえタバコが恰好いいと思っていたはずなのに、今では、
――何とみっともない姿なんだ――
と思うようになっている。
空き地から家に帰る途中に消防署があった。消防署を見ると、友達の家が火事になった時のことを思い出す。
「あまり、あの子と遊んではいけません」
皆から「やっちん」と呼ばれていた。もう本名も覚えていない。
母親からそう言われ、なぜそんなことを言われるのか分からなかったが、私自身もあまり好きになれないタイプの友達だったので、意識的に避けるところがあった。
どちらかというと、気が小さい方の私は、危ない遊びは一切しない方だった。しかしその子は友達を誘って、
「危ない遊びをしてはいけません」
と大人が言うだろうと想像つくような遊びを、好んでしていた。今から思えば孤独だったのだろう。目立ちたいと思うことが危ない遊びをするということにしか結びつかない貧困な発想。私にはおぼろげながら分かっていた。そんな感情に引き込まれたくなかったのだ。
「火事だ」
やっちんと、ほとんど疎遠になりかかっていた時のことだった。学校から帰りがけに大きな声で叫んでいる大人の人を目で追っていた。
放課後は学校で遊んで帰ることもたまにあったので、その時はきっと夕暮れが近い時間帯だったように思う。いつも見る夕日を気にしながら歩いていて、大きな声のする方を見つめなおしていた。
工場の煙突から吐き出される黒煙とは違う、もう少し薄い煙が空に舞い上がっていた。それは煙突のような小さな出口から吐き出されるものではなく、明らかに燃え広がっていることが分かるものだった。幸いにも風があるわけではなかったので、煙は真っ直ぐに上がっていた。それでも乾燥しているのか、かすかに、煙の前に立ちはだかった住宅の影からオレンジ色の炎がくすぶっているのが見えた。
――ここから見えるのだから、結構激しい火事なんだな――
と感じたが、もう一つ、重大なことに気がついた。
――あの方向は、やっちんの家の方向だ――
即座に理解できた。きっとやっちんは、友達と火遊びをしていて火事になったんだということを……。
野次馬で埋まった人垣を掻き分けて少し入っていくと、燃え盛る家を呆然と見ているやっちんと、その友達が見えた。その表情は何とも情けない表情をしていて、友達など放心状態だった。やっちんは、その状況をどう感じているのか、情けない顔をしていたが、真意までは分からなかった。その顔を見ていると、恐ろしさを感じる。目の前で燃え盛っている炎をずっと凝視していて、瞳が炎でオレンジ色に光っている。実に不気味だった。
燃え盛る炎は空を焦がしていた。消防車のサイレンの音が事の重大さを感じさせ、衰えを知らない炎の勢いは、ずっとそのまま私の中で残っていくだろうと感じていた。
作品名:短編集28(過去作品) 作家名:森本晃次