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①冷酷な夕焼けに溶かされて

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疑心


唇を、なぞられる。

ひんやりと冷たいものが、唇へ塗られている。

(誰?)

確認したいけれど、どうしても瞼が重くて開かない。

小さく息を吐くと、そっと頬を撫でられた。

少しかさついた骨ばった指で優しく撫でられる、その感覚には覚えがある。

幼い頃、転んだとき。

少し大人に近づいた頃、婚約が決まった時。

ミルクチョコレートの瞳が優しく細められ、涼しげな笑顔と共に、指の背でそっと撫でられた記憶。

「…ルイーズ…。」

うっとりと名前を呼ぶと、ピタッと動きが止まる。

ふと上目遣いに顔を見上げると、耳と頬を赤くしたルイーズの横顔がそこにはあった。

私は目を瞑ると、その胸に頬を寄せる。

少し早めの鼓動が心地よく、私はその胸元をきゅっと握った。

すると、ふわりと体が持ち上がる。

そしてやわらかな芝の上にそっと寝かされて、顔にかかった髪の毛を丁寧に整えてくれた。

心の奥底から幸せが溢れ、なぜか涙が溢れる。

その瞬間、ルイーズが離れそうになった。

「離れないで…。」

私がぎゅっと胸元を掴み直すと、小さな吐息が額にかかる。

同時に、包み込むように、その逞しい胸に優しく抱きしめられるのだった。

「にゃーお。」

遠くで猫の声が聞こえる。

「にゃーおぅ。」

誰かを呼ぶように、何度も鳴き声が聞こえる。

「にゃーおぅ!」

突然大きく聞こえた声と共に、どすっと体の上に乗られた重みで、ハッと目を開いた。

その瞬間、低い呻き声と深いため息が聞こえる。

(……………。)

「え?」

目の前に見える滑らかな喉仏に、私は思わず声を漏らした。

よくよく自分の状況を見てみると、なぜか逞しい胸に抱きしめられていたのだ。

(えー…っと…。)

まだ目覚めたばかりの脳がなかなか働かず、状況が掴めない。

「にゃん!」

その時、もう一度耳元で猫の声がして、ようやく昨夜の記憶がよみがえった。

(ということは…もしかしてルイーズは夢で…今、目の前にいるこの人は…。)

恐る恐る見上げると、滑らかな弧を描いたやわらかそうな顎が見える。

「ミっ…ミシェル様!!」

私が飛び起きようとすると、逃がすまいとするかのようにきつく抱きしめられた。

(あれ?いつの間にこんなことに…?)

再びぼんやりする頭をペーシュに踏まれ、今度こそ意識がしっかりと覚醒する。

「あ…あの…ミシェル様…。」

しっかりと抱きしめられている為、少しはだけた寝間着からのぞく素肌に頬が触れ、ミシェル様の鼓動が直に聞こえた。

それは昨夜とは違い、穏やかな音だった。

(いつの間に、戻っていらしたのかな…。)

(というより、いつの間に私はベッドで眠っていたのかしら…。)

考えれば考えるほど鼓動がだんだん激しくなり、耳の奥も頭の中もドクドクと音がする。

あまりに激しい拍動に、体自体が心臓になったかのように動いた。

「にゃっ!」

そこへ、再び繰り出された猫パンチ。

見事にペーシュの手がやわらかな白金髪をパコンと殴り、ミシェル様がようやく身じろぐ。

「…ペーシュ…。」

深いため息を吐きながら、殴られた頭をおさえるミシェル様。

ようやく抱きしめられていた腕の力が緩み、そこから抜け出すことができた。

「んー…ふぁ…。」

ミシェル様が大きく欠伸をしながら伸びをすると、ポキポキと骨が鳴る。

「にゃん!」

そんなミシェル様の胸の上に、ペーシュがどすっと乗った。

「っごほっ…」

ちょうど鳩尾を踏まれたのか、むせながらミシェル様はのそっと起き上がる。

けれど、まだ目は開いておらず、ふわふわの癖毛は寝癖でボサボサになっていた。

「んー…飯か…うん…飯だな…。」

ぼーっとした様子で呟くと、そのままふらりとベッドから立ち上がる。

「にゃお。」

その足元にペーシュが嬉しそうに纏わりつくので、たまに足がもつれながらよろよろと部屋の奥へ歩いて行くミシェル様。

「…。」

いつもの一分の隙もない冷酷な雰囲気からは想像もつかない姿に、私は思わず笑顔になる。

「可愛い…。」

一国の王に失礼な言葉だけれど、今のミシェル様は『ルーチェの王』でも『侵略王』でもない、『ミシェル』というひとりの男性にしか見えない。

私はミシェル様のブランケットをたたみ、服を着替える。

ちょうど髪と化粧を軽く直したところに、ミシェル様が戻ってきた。

「おはようございます。」

私が笑顔で挨拶すると、すっかり目が覚めたミシェル様はいつも通りの冷ややかな視線をこちらに向ける。

「…。」

そして、無言のまま足早に近くまで来て、私の後頭部の髪を乱暴に掴んだ。

「!」

思わず身構えるけれど、ミシェル様の視線は私の唇に注がれている。

しばらく無言で見つめた後、ミシェル様はパッと手を離し、枕元から何か取り出した。

それは、綺麗な装飾の薬器だった。

無言のまま蓋を開けると、軟膏を小指に薄く取り、私の唇を優しくなぞる。

「!」

思わずびくりと肩をふるわせると、ミシェル様の口がへの字に歪んだ。

「…痛むか。」

初めて労りの言葉を掛けられ、嬉しくなる。

私は、首をふりながら満面の笑顔で答えた。

すると、昨夜噛み切った傷が少し開いたのか血が滲み、ミシェル様の眉間に皺が寄る。

「そんなに嫌だった」

「ミシェル様。」

ミシェル様の言葉を遮るように、ノックと共にセルジオの声がする。

「…。」

いつもならすぐに返事をするのに、なぜか何も言わない。

何も言わないばかりか、ミシェル様は私の顔をジッと見つめている。

「…ミシェル様?」

もう一度ノックの音とセルジオの声がすると、ようやくミシェル様が扉をちらりと見た。

「入れ。」

ミシェル様の返事を得て、ようやくセルジオが扉を開いた。

「ララとフィンを呼べ。」

「…はっ…。」

返事をしながら微かに首を傾げるセルジオに、ミシェル様は冷たい視線を向ける。

「今後、夜伽の送迎はララとフィンに任せる。」

セルジオは、目を見開いて私とミシェル様を見比べた。

「おまえの護衛は不要だ。ルーナは『ヘリオス』だからな。」

「…。」

ミシェル様の言葉に、セルジオはさして驚いたそぶりもない。

「…ふ、やはり知っていたか。」

ニヤリと、ミシェル様が笑った。

「申し訳ありません。…女だった故、後宮に納めるならばお伝えする必要はないかと」

「私がヘリオスを探していること、知っていたはずだ。」

厳しい口調で叱責され、セルジオが慌てて床に額を擦り付ける。

「申し訳ございません!」

ミシェル様は剣を抜くと、セルジオの首にピタリとつけた。

「おまえはもう信用ならぬ。」

「!」

セルジオの肩がびくりと跳ねる。

「お待ちください!」

私は、咄嗟にセルジオとミシェル様の間に滑り込んだ。

「『ヘリオス』のことは国の機密ゆえ、誰も気づいていないと思っておりました!
セルジオは…幼馴染みだからこそ気付いたのかもしれませんが、私が後宮に入ってしまえばルーチェに仇なすことはないと思い、黙っていたのだと思います!
兄ヘリオスの名誉を守るため!」