人魚の下半身
マサトラの声は、化け物を見たかのように震えている。
「別に、どういうつもりもなにもないですよ」
「あ、あの、私に海鮮丼を食べさせてくれた、んで、す」
少女は声を挙げた。男がなんらかの非難をされるかもしれないと思ったのだ。マサトラが、零れる様に呟く。
「魚が、魚を食ったってか。……共食いじゃねえか」
恐々とした目を少女に向ける。気の強そうな男だったが、その眼は未知に対する恐怖で満ちていた。
マサトラの呟きを、男は柔らかい笑みでもって拾う。
「いいえ、共食いなんかじゃありません。鮪は鰯を食べるし。鰯は海老を食べたりします。彼女は普通に食物連鎖に従って、海鮮丼を食べてるだけです。何ら可笑しいことはありませんよ」
男の整然とした答えに、マサトラは暫し茫然とした目で少女を眺めた。マサトラの中で何が起こっているかは分からない。ただ、少女はその不躾な視線に無言で耐えた。
そして幾分か。マサトラはなにかを理解したようで、「そうか! そういうことか!」と声を挙げた。マサトラは少女の横に強引に座った。
「どうだったい嬢ちゃん。大将の飯はうまいだろう!」
マサトラの目にはもう恐怖は微塵もなかった。あまりの変貌に、少女は固まる。ひとまず、むりやり顎を縦にふった。
「そうだろ。大将のすしはなあ、人を幸せにするんだ。食べてると自然に笑顔になってくる。なあ! 大将」
マサトラの問いに、男は苦笑する。
「幸せにするかどうかはわかりませんが、食材を一番おいしい状態で提供することは心掛けてますよ。魚はストレスを与えると、すぐに味が悪くなってしまいますからね。だから、大事に食材は扱ってます。――そういう心掛けが、お客さんが自然に笑顔になることにつながっているのなら、幸いです」
「あの、今日初めて魚のお肉を食べたけど、凄く美味しかったです。こんなにおいしいものがあるんだ! 幸せだ! って思いました」
少女は勇気を振り絞って言った。顔を真っ赤にした少女を、男は愛おしそうに眺め、「ありがとう」と返した。
帰り道も男に家まで送ってもらった。たわいもない話ばかりした。けれど少女にとっては初めての経験で、とても心温まるものだった。
「もし下半身が要らなくなったら、いつでも言ってくれ。美味しく調理してあげるよ」
「そんな日は来ないと思います」
こんな軽口まで言える仲になった。帰り際、少女は言った。
「あの、下半身はあげられないけど、それでも、これからも会ってくれませんか?」
少女の本気のお願いだった。こんなに優しく扱ってくれる人なんて、これからきっと会えないだろう。少女の願いに、男は快く返した。「勿論だよ。僕は基本お仕事してるから休日はないけど、二週間以上前から誘ってくれたら、予定を空けておくよ」そう言って、名刺の電話番号に掛けてくるように言った。
それからというもの、男と少女は度々遊びに行った。遊園地。映画館。ショッピングモール。水族館。男は優しく、少女をどこにでも連れて行った。
少女は今まで行けなかったところに行けて、嬉しかった。笑顔が溢れた。男といる間は夢心地だった。
眼前のステージでは、少女の幸福を祝うようにイルカたちが一斉に飛びあがる。バシャンっと大きな水しぶきと共に、会場は大きな歓声に包まれた。
イルカの演技が終わり、トレーナーのお姉さんがイルカにご褒美の魚をやる。くわっくわっ とイルカの嬉しそうな鳴き声がステージに響く。観客たちはその様子に可愛がりの視線をやった。
――私が魚を食べたら、共食いって言われるのにな。ずるいな。
イルカののどに魚が通り抜けていく様を見ながら、思った。
そして少女は恐ろしくなった。少女は、イルカに嫉妬してしまったのだ。「人間」ならば思いも浮かばない内容に、少女は果たして自分が、人間なのか魚なのか分からなくなってしまった。
「ねえ、私って人間かな、魚かな」
隣に座る男に少女は訊ねた。男はその質問にぎょっとした顔をしたが、その後当たり前のような顔をして言った。
「上半身が人間で、下半身が魚だろう。どっちでもない。半分半分だ。君は魚の足がついている限り君は完全に人間になれないし、人間の頭が付いている限り魚にもなれないんだ。分かるね?」
「それは……そうなんですけど」
「あまり深く考えすぎちゃ駄目だよ。悩みはストレスになるし、身体に悪影響を与える」
そう言って男は少女に缶ジュースを差し出した。座席販売されていたそれは、キンキンに冷えている。首に充てるとひんやりして、頭脳がさえわたってくるようだった。そして、少女は当然のことを改めて知った。魚の下半身がある限り人間になれないなら、無くせばよいのだと。切り落としてしまえば私は完全に人間になれるのだと。
男の目的達成は、私を人間にしてくれるのだと。
「ねー、あのお姉ちゃんも足がお魚みたい!」「こら、そういうこと言わないの! 静かに」
どこかから親子の他愛のない指摘が耳に入る。何故かこの瞬間だけは、少女にとって他人事のように思えた。そして、タオルケットを捲り上げて自身の鱗を眺め見た。
――この肉体は自分のものではない、という錯覚に陥った。青緑の、きらきらと輝く鱗たち。この下半身のせいで窮屈に生きているというのに、この時だけは、とても美しいものに思えた。
男は別れ際いつものように
「もし下半身が要らなくなったら、いつでも言ってくれ。美味しく調理してあげるよ」と言った。いつもなら「そんな日は来ない」と軽口を返すのだが、今日は違った。
「もしかしたら、本当にお願いするかもしれないです。期待しててください」と笑って答えた。
「えっ」
「ふふ」
男の驚いた顔が見られたことに笑みを浮かべながら、少女は家に帰った。
少女は家につくと、一目散にパパとママの部屋を訪れた。
「ただいま、ママ」
少女は水槽に目線を向けるママに声をかけた。ママはびくりと肩をふるわせ、時間を3秒ゆっくりとかけ少女を振り返り「おかえり」と返した。
出入口以外壁四面全て覆うような特殊な形をした水槽と、部屋の中心にぽつんと一台のベッド。これが両親の部屋だ。
部屋は常に薄暗く、水槽から放たれる青い光も相まって、さながら水族館のようだ。にしては、水槽の中はパパ以外おらず、寂しいものだったが。
「ねえ、ママ、大事な話があるの」
少女はママのいるベッドに腰かけた。ママは既に視線をパパに戻していたが「なによ、改まって。どうしたの?」と声だけ優しく返してくれた。
「ねえママ、ママは、私のこと愛してる?」
「勿論よ」
優しい声で返すママ。ここまでは、小さな頃よくした会話だ。少女は、意を決して問うた。
「じゃあ、パパと私、どっちの方が愛してる?」
ママは水槽から視線を微動だにさせなかった。パパは、私の声なんて聞こえないように悠々自適に水槽の中を泳ぎ回っている。
パパは、青緑色の鱗をきらきらと輝かせて泳いでいる。
ママは当たり前のことを言うようにすっと答えた。
「そんなのパパに決まっているじゃない。この綺麗な鱗を見てみなさい。綺麗でしょう。この綺麗なのが、全身を覆っているのよ。こんなの、パパの方を愛さずにはいられないじゃない」
「……」