人魚の下半身
「でも、もうパパも終わりね」
「どういうこと?」
「パパはもうすぐ寿命なの。そうね、多く見積もっても、あと2年でパパとはお別れだわ。そうしたら、あなたを一番に愛せるわ。その時まで待っていてくれる? パパが死ぬまでは、どうしてもあなたは2番目なの」
ママは、私を愛していない訳じゃない。けど、私よりもパパを愛している。聞きたかったけれど、聞けなかった事実を聞いて、少女はどこか納得した心持ちだった。
「ねえママは、私のどこを愛してる?」
「パパとよく似た綺麗な鱗を愛しているわ」
「上半身は愛してない?」
そう聞くと、ママは申し訳なさそうに答えた。
「ごめんね、母親として貴方のすべてを愛せたらよかったのだけど、私は人間嫌いなの」
ママは心底悲しそうに言ったので、少女はそれ以上質問を重ねるのは止めた。
それから深夜。少女はママが寝静まったのを見計らい、両親の部屋に忍び込んだ。網を使って、そしてパパを掬い上げた。バシャバシャと勢いよく跳ねたが、それでもなんとか掬い上げた。大きな音を立てたので、ママは目覚めただろうかと心配になる。後ろを振り返ったが、起きた様子はなかった。青い光に照らされて、ママは安らかに瞳を閉じている。
少女は苦しそうにもがくパパを手の平に乗せながら、キッチンに向かった。
今まで一度も使ったことの無い、コンロの魚焼きグリルにパパを乗せて、考えた。
私は人間になりたいけれど、ママは人間を愛せない。愛してくれないのは、いやだな。
でも、人間になれないのも、嫌だな。と。
下半身を切り落とせば、人間になれる。人々から奇異の目で見られることもなくなる。けれど、ママから愛されなくなる。それは辛いことだ。少女にとって、ママ以外に少女がどのような人物か知る人間は、ほとんどいないのだから。小さなころから、ママとずっと一緒だった。ママはパパと三匹暮らしよ、と言ったが、少女にとってパパは只の魚に過ぎず、締め切られた二人暮らしだった。
だから、ママが自分を愛さなくなったら、どうなってしまうのか少女には想像もつかなかった。ママに愛されるためには、下半身を残しておかなくては。綺麗な鱗を残しておかなくては。
――けれど、それ以上に人間になりたかった。数ヶ月男と過ごして、人間として生きることの素晴らしさを知ってしまった。
少女は人間になるべきか、ママの愛を受けるかで、とうとう迷ってしまった。
少女は男に連絡を取った。もう時刻は深夜の二時を過ぎたところだったが、男は二コールで電話をとった。
「ごめんなさい、寝てましたよね」
「いや構わない。それよりどうしたんだこんなに遅くに」
男の声は深夜にも関わらず、明瞭だった。その事に少女は少し安堵した。こちらがいくら切羽詰まっているとはいえ、寝ている人を起こすのは忍びなかったからだ。
「あの、私、下半身を切り取りたいと思ってるんです」
少女の告白に、男のはっとした息遣いをを感じた。
「そうか。……そうか、本当に嬉しい、君がそう決断してくれて」
喜色めいた声で言う男に、少女は申し訳ない気持で遮る。
「いいえ、決断はできていないんです。実は迷っていて。それで、相談に乗って欲しんです」
「そうか、だったら話を聞かせてもらおう。下半身切断までに至る不安を、全部切り取ってあげるよ」
優しい声で言う男に、少女は安心しきって全てを話した。
「――そうか、お母さんの愛を受け取れなくなるのが怖いんだね」
「はい、そうなんです。下半身を切り取っちゃったら、私はママに愛されなくなる」
男は一通り話を聞くと、考えこむように沈黙した。
暗い廊下に、水槽の酸素を供給する機械的な音だけが響いている。それ以外全く周りに変化がなくて、明かりや廊下、空気でさえも今は寝静まっているようだった。少女はまるで、世界から取り残されている心地に錯覚した。固定電話から時折聞こえる男の息遣いだけが救いだった。
「この際だから、はっきり言ってあげよう」
男が口を開いた。少女は耳を澄ます。
「君は、今までも、一度たりとも母親から愛されたことはない」
「……」
「正確に言うなら、君が、『好き』だとか『嫌い』だとか、物事を考える『上半身』は愛されたことがない。君のお母さんは、いつだって君の下半身しか見てこなかったんだ。もし君が、下半身を残したまま生きていったとして、ママは君を愛さない。君の下半身しか愛さないんだ。それは本当に君が求める『愛』なのか」
少女の頬に、自然と涙が一筋零れた。
少女の脳裏に、今までママと過ごしてきた日々が蘇る。それは、少女の人生全てを思い出すと言っても過言ではなかった。少女は、男に出会うまで、ママとしか過ごしていなかったのだから。幼い日のやりとりを思い出す。ママは私のことが好き? と無邪気に尋ねた日を。勿論愛しているわ、と答えてくれたあの日を。
「酷いです。本当のことを全部言ってしまうなんて。私の人生は、嘘にまみれていたって言うなんて」
「……でも、そう言って欲しかったんだろ。そうじゃなきゃ、俺に電話はしてこない。俺は、どうしたって君を食材にする方向にもっていきたいんだからな」
男に言い切られたことによって、母の愛を求めて下半身を残す理由が無くなってしまった。すると、もう、少女の求めることは一つしかなかった。
「あの、お願いがあるんです」
少女は意を決して言った。
「なんだい」
「私を人間にしてください」
夜中にも関わらず男は迎えに来てくれた。玄関を開けたときの男の表情は、恍惚としていた。
暗い真夜中の街並みを少女と男は進み、男の店にたどり着く。
「切り落とすよ。心の準備はいいかな」
「大丈夫です」
まな板の上に乗せられ、視界には鮪包丁を構える男が見える。鮪包丁の、細長く銀色のきらめきを見つめながら、少女は自身の肉を切られる音を聞いた。
目が覚めた時には、下半身はきれいさっぱり無くなっていた。少女は憑き物がすっかり落ちたような晴れやかな気分だった。外はとっくに日が昇っていて、店内に朝日が差し込んでいた。
男が緑茶を少女に差し出す。
「人魚の肉のすし、食べてみる?」
些か興奮した声の男に、少女は緑茶をすすりながら頷く。
少女の目の前に出されたのは、ピンク色の綺麗な身のすしだった。清潔な脂が、さらさらと輝いている。宝石のようだった。
少女は丁寧に口に運び、味わった。美味しかった。噛むたびに幸せが溢れてくるようだった。
「美味しいです」
「それは良かった。素材にはこだわってるんだ」
少女は笑顔で、男も笑顔だった。
そこから少女の日々は怒涛の勢いで変化した。
駅前に行けば、下半身欠如の憐れな少女として、必ず誰かが優しい声で助けてくれるようになった。
誰がどういったのか、少女のママを、義務教育も受けさせないネグレイトの酷い親だと言って断罪した。
誰がどういったのか、テレビ局の人間が取材を申し込んできて、下半身欠如の憐れな少女と紹介して、涙をお茶の間に誘った。少女は日本中の悲劇のヒロインになった。