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短編集27(過去作品)

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 誰にも追いつけるはずのない世界。アスリートとしての極めた世界は神聖な世界のはずなのに、誰にも入れない世界に横からの視線。三橋は何度も焦りを感じていた。
 敵は後ろからではない。真横にいつもいるのだ。だからこそ、皆より早く走れるのかも知れない。そう感じると皮肉なことに、さらなる自分の世界を求めたくなってくる。
 人間とは、何と貪欲な動物なのだろう? しかし欲というものがさらなる成長に不可欠であることを三橋は以前から感じていた。陸上をやめてもその思いは強く、立ち直れたのもきっと欲を持ち続けていたからだろう。
 その欲がどこからくるものかは分からない。そして何を求めているのかも分からない。分からない理由の一つに、結局最後まで真横からの視線の正体が分からずじまいで陸上を断念せざるおえなくなったことへの未練があるからに違いない。
 不思議なもので、陸上をやめても、時々真横からの視線を感じていた。気付いてその方向を見ると、あるのは自分の影だった。
――影――
 影は自分の身体から伸びているもので、自分が動けば影も動く、自分の世界に唯一入り込めるものがあるとすれば、それは影だけだろう。
 陸上ができなくなった。もう走らなくてもいい。いろんな思いが交錯し、頭の中で混乱していた。
 自分だけの世界が孤独だということに気付いてしまった。走っている時にも気付いていたのだろうが、知らなくてもいい世界だったので、気付かないふりをしていたのだろう。だが、陸上を断念せざるおえなくなって、いやがうえにも思い知らされた。そんな気持ちの中で自己犠牲など考えられるはずもない。
 もう一人の自分が存在しているのではないかと思ったのは、影を意識するようになってからだ。
 いつも自分のそばにいるのに、存在を見ることができるのは光がある時だけ。ない時でも見えないだけでいつもそばにいる。それに気付いている人が果たしているだろうか?
 挫折が気付かせたのか、それとも栄光の中でのふとした孤独感が気付かせたのか分からない。だが言えるのは、影も両方の三橋を知っているということだ。まったくの無表情にもかかわらず……。
――しかし、どうして影が無表情だと思ったのだろう?
 自分を写しているのが影なのだということに間違いはないだろう。それならば、表情があってもいいはずだ。だが、思い浮かぶのは鏡に写った時の無表情な自分の顔だけである。
 自分に極端な一面があることに気付いたのはそれからだった。それまでは、人と同じことをするのがあまり好きではなかったが、極端な考えまでは持っていなかった。だが、自分に順応性なる言葉が一番似合わず、虫唾が走るほど人に合わせることを嫌う性格だったことに初めて気付いた。
 それまで人に合わせているという感覚がなかったのだろうか。それとも独りよがりの考え方がまかり通っていたのか、あまり意識することはなかった。だが、陸上をやめてまわりを見ると、そうも言っていられなくなった。
 一般常識という言葉が目の前に立ちはだかる。あれだけあった自分に対する自信が陸上を断念したことによって根底から覆されたのだが、そこに甘えは許されなかった。社会がかくも暖かく、そして冷たいものだという両面を同時に思い知らされたといっても過言ではない。
 自信喪失してからの三橋は、かなり臆病になっていた。今まで前に誰もいない世界しか知らなかったが、今度は、後ろにいた人が皆背中を見せて前を走っているのだ。
 当然、後ろを気にしていないだろうということは、陸上をやっていた自分を思い出せば分かることだった。
――果たして他の連中も後ろを気にしないのだろうか?
 先頭を走っていて、典型的なアスリートだったと自負している三橋には後ろを振り向くことは考えられない。だが、他の人は皆が皆アスリートと同じ考えではないだろう。前よりも後ろを気にする人も多いだろうし、むしろ前に無数の人が走っていれば、後ろが気になるものなのかも知れない。
 もし後ろを気にしながら走っているとすれば、どんな行動を取るのか予測がつかない。それだけに恐ろしい。後ろを気にしながら走っていると当然バランスを崩すだろうし、コースを外れてみたり、あるいは、安定感を失ってそのまま転ぶかも知れない。一人が転べば他の人も将棋倒しになってそれに巻き込まれるだろうことは想像がつきそうだ。慎重になっているというよりも、知らない世界だからこそ、臆病になっていると言った方が正解かも知れない。
――俺はこんなところにいてはいけない――
 無意識にそんな思いがよぎる。自分が他人とは違うのだという思いが強いせいもあってか、人から何と言われようとも、自分を他の人と同じ尺度で見ることを嫌った。
 それからというもの、影を気にするようになった。他の人のことよりも自分の影の方へと意識が強くなってくる。
 人の嫌なところばかりが目に付くようになってきた。他人とは違うという強い意志を持っているからだろうが、人との違いを意識することがこれほど自分に弊害をもたらすものかとも考えたが、すでにどうすることもできなくなっていた。
 影がじっと見つめている。
 影は何かを言いたそうなのだが、何も語りかけてこない。それは闇に包まれた状態でも分かるものであって、
「お前、時々ボッとしているぞ」
 と人から言われることも多々あった。
 他の人から見れば闇の中を見ているだけにしか見えないだろう。本人にしても自分の影が見えるわけではないので、虚空を見つめる目をしているだけにしか思えない。
――虚空を見つめている自分の目――
 それは一体どんな目をしているのだろう。
 次第に三橋は自分の中にある諸悪性に気付くようになっていた。
 最初はそれが何であるか分からない。ただまわりに合わせることを極端に嫌い、見ている皆がだらしなく見えてくる。
 自分がだらしないというわけではない。きちっとした性格でもないし、整理して物事に当たることが苦手だ。しかし電車の中や歩いていての一人一人の行動を見ていたりすると。無性に腹が立ってくるのだ。
 電車の中で、携帯電話を使ってはいけないというのに、平気で通話しているやつ、歩いていて咥えタバコをしているやつ。そんな連中に対して敏感に反応してしまうが嫌になることもあるが、そんな連中が自分の後ろを走ってくれていればいいのだが、皮肉なことにそんなやつらに限って自分のすぐ前を走っているように思える。
――こいつら、必ず俺の邪魔をしてくるんだ――
 と信じて疑わない自分が被害妄想の固まりかも知れない。
 目の前にいる連中はそれぞれまったく違うところにいる連中のはずなのに、こと三橋自身に対しては共同戦線を張っているようだ。いつ共謀して襲ってくるか分からないと思えるくらいに感じてしまうと、こちらも露骨に戦闘体制に入らざるおえない。
 きっとまわりから見れば三橋一人浮いて見えるだろう、それがどこから来るのか分かる者などいないに違いない。分かるとすれば自分の影だけ、影は自分自身なのだから。
作品名:短編集27(過去作品) 作家名:森本晃次