夢魔
「ほほぉ、それは何とも有り難いお言葉ですね」半分ほどに減った先生のグラスの中で融けかけた氷がカタリと音をたてる。
「あの、実は私も小説を書いているのです。未だに文学賞の二次選考どまりなのですが」先生の態度があまりに優しかったので、私は余計なことまで口走ってしまった。
「ほぉ、貴方も小説を……」郷田先生はそう言ったきり暫らく黙り込んだ。
私は何か気に障ることでも言ってしまったかと、次の言葉を固唾を飲んで待っていた。
「米山さん。夢魔、というのをご存知ですか?」
意表を突く言葉だった。“夢魔”それは夢に出てくる悪魔。またはそれによってもたらされる悪夢の事である。私は先生の作品にも時折り登場する夢魔の話なのだろうか、と思った。
「ええ、もちろん。先生の作品でも何度か扱ってますよね」
郷田三津彦の“夢魔シリーズ”とは、妹を死に追いやった一匹の夢魔を追いかける降魔導士の物語である。
「そう、あれも確かに夢魔の一つのカタチなのですが、通常は余程に育たないとあの様な意思を持った化け物にはならないのですよ。普通ではもっと抽象的な悪意の様なモノでしかないのです……」郷田先生は哀しいとも寂しいともつかない曖昧な笑顔を見せる。
「夢魔はですね、直接人に危害を加える事は出来ないのですよ。悪夢を見せて人を追い込む。或いは夢の世界に耽溺させて生きる力を奪ったりする。私は前者を黒い夢魔。後者を白い夢魔と呼んでいます」
「ええ、存じています。先生の夢魔シリーズは大きく育って意志を持った黒い夢魔を扱ったものですね」
「そう、黒い夢魔とはまさしく悪夢。意思を持った悪夢です。眠りに落ちた人間の精神を破壊し喰らい尽くすか、またはその恐怖によって眠りそのものを奪うのです。
それとは逆に、白い夢魔は、言うなれば意思を持った白日夢。人を夢の世界に誘い込み、目覚める事を拒否させるか、或いは実生活を破滅に追い込むのです」
「実はね、私も此処に夢魔を飼っているのですよ」自分の頭を指で突付きながら先生が言う。「まあ、モノを書いて生業としようなんて考える人達には多かれ少なかれ白い夢魔がとり憑いているのだと思うのですが――」