黄泉明りの落し子 三人の愚者【後編】
ニコールに引っつかまれ、ルヴェンは嗚咽していた。
その神父が泣きじゃくる面構えが、薄暗い視界の中でもニコールには、はっきりと見て取れた。
「ルヴェンさん……!」彼は息も絶え絶えに、訴える。「なにをしてるんです……! 私を死なせてください! ……死なせてください、死なせてください!」
「おい、ルヴェン……」
ニコールは、この男への困惑を禁じえなかった。
だがそれは間もなく、激しい怒りにとって変わった。
「どういうことだ……!」
ニコールはルヴェンの胸倉を乱暴にひっつかみ、強引に引き寄せる。
このならず者の体力は未だに激しく消耗していたが、彼の激情は全身の筋肉を隆起させた。
「どういう冗談だ、ああ? 神父さん。人様を飢えから救っておきながら、自分はこんな森の中で汚い首吊り死体になろうってハラかよ!」
「そ、それは……」
「おぉ、おぉ、盛り上がってるじゃねえか、諸君!」
割って入る、場違いなほどに明るい大声。
続けて響く――トントントン、トン――杖を打ちつけ、足元を確かめながら迫る音。素早く、距離が縮められていく。
その音が途絶えた。
ニコールは見上げた。
目線の先に、ヌーマスがいた。
「おっさん……テメエ」
閃光。
金属と火薬の爆ぜる音。
空気を劈いた、銃声。
「な」
ニコールは呆けたように呟いた。がくりと、膝をついた。
その横で、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったルヴェンの顔が、恐怖に染まった。
「いやああああああ!」
腰を抜かした女のような神父の悲鳴が、響き渡った。
ニコールの褐色の着衣……その左大腿部に、血が広がっていた。
「こんなところでお目にかかれるとは思ってなかったよ」
ヌーマスの、冷ややかな声。
その右手に握られた燧発式拳銃を、彼は放り捨てていた。
「なんの……ことだ……!」
続けてもう一発。目にも留まらぬ速さで懐から抜かれた、もう一丁の銃。
左肩を劈いた激痛に、ニコールは叫んだ。
「クソめ」
二丁目の拳銃を放り捨て、ヌーマスは距離をつめる。
足取りは変わらず、どこか不安定だが、その歩みには、一切の迷いがなかった。
彼は、杖を前に掲げる。杖の中から引き抜かれ、ぎらりと刀身が現れていく。
仕込み杖だ。
「ド畜生……!」
激痛に悶絶するニコールは恨めしげにうめく他なかった。
ヌーマスは答えなかった。
片目の男はただ、冷ややかに、剣を構えた。
「死ね」
だが。
ニコールを庇うかのように、屈んだ姿勢のままルヴェンが進み出たのは、その時だった。
「……なんの真似だ? あー、ルヴェン君よ」
殺気を帯びた、白みがかった右目が、無力な青年を見下していた。
神父の体はガタガタと振るえ、涙と鼻水で汚れたその顔(かんばせ)は、恐怖に引きつっていた。
「……おやめください、ヌーマス殿。きっと何かの間違いだ」
ルヴェンは声を、絞り出す。
「どいてくれや若造。お前さんじゃ俺には勝てねえぞ」
「きっと、何かの誤解です」
「お前さんには関係のねえことよ。さあどけや」
「でも……!」
「でもなんだ?」侮蔑の声。
「あんま言いたかァねえがよ、お前さん、死ぬ気なんだろ?」
ルヴェンの目が、大きく見開かれる。
「おまえさんの事情は知らねえがよ、俺はそいつを殺して、あんたもここで死ぬ。それでこの話は終わりなんだよ」
ヌーマスは、言葉を継いだ。
「それから、ハッキリ言ってやるがよ、あんたの欲しいもんは、そいつたぁ何の関係も――」
「それでも!」
ルヴェンが突然に叫び、ヌーマスの声が遮られた。
「成さねばならぬことだと! 私は、私は―――!!!」
うなり声。
森の空気が、総毛立ち、世界が震えた。
ニコールも、ルヴェンも、ヌーマスも、等しく動揺した。
たて続く、獅子の如き、咆哮。
三人は周囲を見渡すが、その声の主は見えなかった。
それなのに、その声はあまりにも近かった。
あまりにも大きかった。
「ルダ……?」
ヌーマスの声。
ルヴェンは見上げた。
先ほどまで、二人を見下ろしていた片目の殺人鬼が、あらぬ方角に体を向けていた。亡霊でも見るかのように。幻覚に囚われているかのように。
「何で、何でお前さんが――」
「どけ!」
ニコールが、ルヴェンを押しのけた。
彼は懐から取り出した大口ナイフを、ヌーマスに投げ放った。
表情を苦痛に歪め、弱々しく放たれたそれはしかし、正確な弧を描いた。
そして。
「ぎゃあっ!」
とっさに振り向いて向いてしまったヌーマスの右目に、突き立てられた。
彼の、最後の目に。
「そんなっ……!」
打って変わって、ニコールへと駆け寄らんとしたルヴェンは、背後でニコールが激しく喀血する呻きを聞いた。
「ヌーマスさん……ごめんなさい!」
彼はニコールを助け起こした。本来非力なこの神父の筋肉が今、枷が外れたかのごとく、驚異的な力を発揮していた。
神父と、彼に支えられたならず者は、駆け出した。
乱れた足で、しかしながら絶え間なく。
二人の姿は、消えていく。
森の更に、奥。その闇の中へと。
作品名:黄泉明りの落し子 三人の愚者【後編】 作家名:炬善(ごぜん)