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短編集26(過去作品)

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 しかし、どうして今さら冴子のことを?
 別れた時は確かに未練があったが、鈴子と知り合って吹っ切れたことは間違いない。前から知っていたような気がし始めてから、冴子は誠司の頭の奥に封印されたのだ。
 簡単に引っ張りだすことはできないはずだ。鍵は自分が持っていて、決して開けないようにしていた。この店の雰囲気がなければ、きっと掛かったままだったはずである。
 白い煙が昇っていくスピードが次第に速く感じられてくる。最初は喧騒とした雰囲気が耳鳴りのように篭って聞こえていたこともあってか、すべてがスローモーションのように感じられた。上がっていく煙も明らかにゆっくりで、粒子まで確認できるほどハッキリと見えていたように思える。何度も瞬きをするたびに、煙だけがハッキリと見えてくる。まわりは次第に白さに覆われていくのだった。
「ペッコンペッコン」
 またしても聞こえる。この音が現実と幻想の狭間から聞こえてくるようで不思議な気持ちだ。我に返ったとすれば、この音を聞いたからだということを、しばらくして気付いた。
 冴子を思い出していたわけでもないのに、冴子のことが頭から離れない。話しかける時の冴子には特徴があった。最初はものすごく甘えたような声で話すのだ。元々声のトーンが高く、甘えた声が似合うことから、甘えた声が頭に残ったままになっている。時折はスキーな声になるのだが、そんな時は何かに怯えたような声なのだ。自分に自信がない時のか細い声とはまた違う声、それが冴子の魅力の一つでもあった。
 甘えた声が嫌いではない。しかし冴子のことを思い出そうとすると、怯えた声が最初に耳に響いている。
「どうしても私って怯えたような声になる時があるみたいね。自分では何かに怯えているって感じはしないんだけどね」
 そう言った時の顔にはあどけなさがあり、まんざら嘘には見えない。怯えていないというのは本当だろう。
「でもね、誰かが私を見ているような気がすることがあるのよ。その視線は知らない人じゃないのよ。で、そう思ってあたりを見渡すんだけど、知っている人はいないのね。まわりに誰一人としていない時もあるわ。そんな時は、怖いと思うわね」
 そう言って竦めた肩はいかり肩というほどではなかった。そういえば一緒にいる時でもまわりを気にしている素振りの時がたまにあった。それほど気にしている感じではなかったので、誠司の方もあまり気にかけていなかった。冴子が話してくれなければ分からなかっただろう。
 鈴子と一緒に入った中華風の飲み屋で、前にも同じような思いをしたと感じたのは、鈴子も同じようにまわりを気にし始めたからだ。鈴子の表情は明らかに怯えを含んでいる。あまり怯えるような表情を浮かべることのない鈴子にしては、異様な雰囲気である。
 首を回して、後ろを気にし始めた。どこを見ているか分からなかった冴子とは、そこが明らかに違う。
「どうしたんだい?」
 訊ねてみるが、鈴子は答えない。しきりに後ろを気にしていて、誠司を見ていないようだ。
「ごめんなさに。今日の私どうかしているのかな?」
 そう言って前を向いたのは、最初に誠司が声を掛けてしばらくしてからだ。じっと鈴子の顔を見ていたわりには、表情の変化があまり感じられなかった。
 だが、我に返って前を向いた鈴子の表情には、もう怯えはなかった。最初、見る見るうちに怯えへと豹変していった面影はすでにない。
「ペッコンペッコン」
 また乾いた音が聞こえる。
――あの音だ――
 あの音が響いてきたかと思うと、鈴子の表情が怯ええと変わった。今度はその音がしたかと思うと、穏やかな表情へと変わった。
「私夢を見ていたのかしら?」
「時々、こんなことがあるのかい?」
「ええ、時々ね。どうも誰か女の人に見つめられているような気がするの。あなたの顔を見ているとその後ろに誰かが見えるようで、そう感じると、私の後ろに誰かいるみたいなの。でもこんなにハッキリ感じたのは、今日が初めてよ」
 誠司にはそれが冴子だと分かっていた。もう二度と会うことのない冴子が、誠司と鈴子を見つめているのだ。
「どうして喧嘩別れなんてしたんだろう?」
「え?」
 思わず口走った独り言に鈴子は気付いたが、それだけだった。
 長崎に行きたいと言った鈴子。それに賛成した誠司。その翌日に冴子が自殺したことを聞かされた。
「私長崎に行ってみたいわ」
 このセリフ、冴子の口からも聞いたような気がする。その時の声がハスキーで怯えたような声だった。
 ショックだったことは間違いない。ショックは後悔へと繋がる。
――どうして別れてしまったんだろう?
 ハッキリした理由があったわけではない。だが、自殺の原因が誠司との別れにあったことは、残った遺書から明白だったらしい。その時の心境を思い出そうとしても無理なのは分かっていた。もう、冴子は戻ってこないのだから……。
 あれから誠司はずっと夢を見続けている気がする。いつから夢でいつから現実なのか分からなくなっているのだ。
――鈴子が私と同じ夢を見てくれているのだ――
 そう思うと、鈴子の後ろに見え隠れする冴子の姿が見える気がするのだが、決して思い浮かべることができないだろう。
 冴子と一緒に行った中華風の飲み屋、そこでも今と同じようにビードロ細工の音が響いていた。
「乾いていてとても新鮮に聞こえるんだけど、無性に壊れそうで、まるで両刃の剣のようだわ」
 と言っていた冴子の言葉を思い出した。あの時が一番悲しそうな声だったように思えてならない。
「ペッコンペッコン」
 いつまでも乾いた音色を響かせていた……。

                (  完  )

作品名:短編集26(過去作品) 作家名:森本晃次