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枯花飄々

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 私はその流線美と変化する輝き方から、この花瓶は特別な赤い花のために使うべきだと確信した。それまでこの花瓶を割ることなく大事に保管しておかなければならない。花瓶から赤い花を抜き、花瓶を蛇口の傍にそっと置いた。


 抜き取った赤い花は蛇口の傍にあった小さな小瓶にさして少量の水を入れた。その小瓶をいくつもの花瓶が置かれた場所に置き、無数の赤い花の一部にした。左の方に置かれた赤い花達は大半が枯れていて、迷彩柄が綺麗に隠れられそうな色になっていた。反対に右の方の赤い花達は左に比べれば幾分か個性的な色を持っていた。





青空と黄色の菜の花とのコントラストは鮮やかすぎて、どこか浮遊して見えた。回りの景色に溶け込むことなく、そこだけが異空な世界に思えたのだ。
女が菜の花に向かって走っていった。それを追うように私も菜の花に割り入った。線路が軋む音が遠くから木霊するように聞こえ、私と女は静かに菜の花畑の一部になった。畑の中からみる風景は青一色ではなく、もっと冴え渡る色を持っていたが、それを分かったのは随分後のことだった。





 いつの間にか寝てしまっていて、左の頬に枯れた赤い花の葉が一枚付いていた。右手でそっととったが、水分が抜け落ちた葉はすぐにぱらぱらと崩れていった。私が触れたことで壊れていった。これは支配と同義だと思うが、どうも心がすっきりとしないものだった。起き上がるとさっきまでは綺麗に開いていた右の方の赤い花の中のいくつかがしぼんでいた。黒い花瓶の中に挿さった四つの赤い花は花びらを数枚、床の上に落としていた。あの黒い花瓶には初めから水をいっさい与えていない。他の赤い花よりも早くに枯れそうだ。
 小瓶に挿した赤い花は他の花に比べて鮮やかな陰影を保っていて、赤色も見事な単一色を保っていた。それでもどこか一点、そこに濁りが見え始めていた。その一点から生じた腐敗の未来を想像するとふかふかとした陽気な気分になっていく。
 その小瓶にもいくつかのゴミや埃などが入り込んでいて、小瓶の底の水には沈殿物があった。それが確かに沈んでいることを確認して、私は安心して自らの沈殿物についてまた考え始めた。

 かなり抽象的なものである沈殿物について考えていると時々、二つのガラス玉が見えることがある。そのガラス玉は透明ではなく、黒と白の二色で塗り分けられていて、どちらも単一色というより、いくつかの白と黒が混じった色だった。そしてそのガラス玉を真剣に見つめていると突然ガラス玉から水が流れ出す。その水にはガラス玉の色は溶け込んでいない。純粋な水がガラス玉から精製されているように見えた。
 そのガラス玉に触れようと手を伸ばすとさっとどこかに消え、沈殿物がふつふつと暴れだす。そしてまた赤い花を切りにいく。その流れが出来上がっていた。
 私はどうもこのガラス玉は沈殿物そのものではなく、それらの核となるものなのではないかと思い始めていた。
 そして今回もガラス玉が出てきた。ガラス玉を目の前にして私はやはりまた手を伸ばしたくなった。もっと詳しく言うならば、両手でガラス玉の周囲を優しく包み込みたいと思うのだ。
 両手を伸ばせばすぐにガラス玉は消える。そうならないように一切動かずガラス玉を見つめる。私の沈殿物に関る何かだということは感覚的に理解していた。
 ガラス玉から水が流れ出さない。それどころかガラス玉を中心に丸い輪郭がぼやけながら現れ始めた。次第にはっきりしだした輪郭の中に、別の二つのものが生まれ始め、黒い線でそれらが描かれ始めた。
 二つのガラス玉の間から下に伸びたもの、その下にくいっと横に伸びるもの。そしてそれらを包み込むように丸く伸びた線。それは人間の顔に見え始めた。
 同時にその顔が誰か、私が知っている誰かのものに見え始めた。色や形はかなり不明瞭で、識別するには情報が大きく欠けているが、ガラス玉だけはやけに詳しく情報を出し始めた。横に並んだ二つのガラス玉。その右のガラス玉の右下に黒い点が精製された途端、その顔は記憶の奥底に閉じ込めて置いたある大切な、大切な人物のものと重なった。
 その瞬間に私は無意識に両手を伸ばした。輪郭を包み込む前に、ガラス玉達は消えていった。






黄色い菜の花が視界のすべてとなっている。鼻腔に広がるむず痒さが確かな感覚となって捉えられると、私は隣にいた女の顔を撫でていたことに気がついた。その輪郭が淡く滲み出していることに微細な不安を抱いていた。
そして菜の花に隠れて、女は消えた。






 酷く、酷く、内臓が煮立っていた。心の沈殿物という抽象的なものよりも激しい物質的な痛みを感じたのだ。さらに沈殿物も同時に暴れだしているので、さらに酷い痛みだった。私は何とか沈殿物を抑えようと赤い花の箱に向かった。するとどうだ。中には一輪しか残っていなかった。ああ、最後の薬だ。最後の痛み止めだ。私はハサミを使わず、手で茎をちぎった。ハサミの衝撃波のようにさえわたるものはなかったが、強引さ故、悲痛によく似合っていた。強引に千切ったため、繊維がうまくちぎれず、薄皮が一緒についてきた。その赤い花を蛇口まで運び、あの花瓶に挿した。水をいつもより多く注ぎ、急いで赤い花達のもとへ運んだ。そして他の赤い花との区別がつくように真新しいテーブルの上に置いたのだ。
 
 無情なことに赤い花は私の沈殿物を抑えることがなかった。それどころか、赤い花は私に支配されることなく、優々と赤い花弁を広げ続けていた。一向に枯れる傾向を見せず、赤い花弁を力強く咲かせていた。
 私は酷く焦った。全身の血流に乗って暴れだしそうなこの激情を抑える手段が見当たらないのだ。血管を突き抜け、体中の細胞の隙間から噴き出してしまったのなら、私は一体何をするのだろうか。火砕流が森を焼き尽くすよりも色彩的に悲痛を重ねられそうな光景を作り出してしまいそうだと危惧した。

 解消できない焦りとそれがもたらす悲劇的な光景をこの部屋に創造すると、体を捻られるような痛みを覚えながら潺溪と泣いてしまっていた。自分の管理範囲を超えた激情によって、この部屋はいくつもの悲劇的なもので埋め尽くされてしまうのだ。蛹を食い破って外に出ようとする成虫に軋みと苦しみを見るように、私もそう感じていた。
さらに言うと蛹は同時に新たな生命の誕生に付随する臨場感や、迫力といったものも見せる。私の目の前にもそういうものが現れるのかと期待もしたが、見事に裏切られ、ただただ寝そべり、静かなる悲痛を抱き抱えていた。
十二センチの独特な花瓶がテーブルの上で直立して存在している。私は寝そべっているので、テーブルの上の花瓶は見えないはずだが、どういうわけだかその花瓶の詳細が手に取るように分かった。テーブルに置かれた花瓶の水は上澄みと沈殿物がまだ綺麗に分かれ切っていなかった。床に置かれた枯れた赤い花が挿さった花瓶の水は境界線こそ確かではないが、綺麗に上澄みと沈殿物に分かれていた。腐りそうな水とまだ新鮮さを保った水。透明な上澄みを持つ腐れ水を見つめるとほんの僅か、涙が減ったように感じたが、それは誤差の範囲と言えよう。
作品名:枯花飄々 作家名:晴(ハル)