枯花飄々
「枯花飄々」
花瓶には一輪の赤い花が枯れる寸前の状態で挿されている。細長い花瓶の中には少量の水が入っていて、随分濁っていた。花瓶の底には容易には取れそうにもない水の跡がこびりつき、時間がだいぶ経ったことを感じさせた。
その花瓶は木でできたテーブルに置かれていた。そのテーブルも随分湿気を吸い取っていて、力を加えれば壊れてしまいそうな、そういう力の均衡を保っていた。そしてその力の均衡に花瓶も一役買っているようだった。
テーブルの下にはいくつもの無個性な花瓶が並べられ、そのどれもが醜く朽ち果てた植物の住みかであった。虫が湧いていそうな穢らわしさがそこにあるが、羽虫特有の音や、地面を這う虫の気配はなく、一匹たりとも部屋に侵入できていないようだった。
この部屋の陰湿な空気を最後に吸い込んだのはいつのことだろうか。毎日印をつけた日記帳によると約半年前だった。日記帳も随分日に焼けていて、最初のページなどインクが滲み出していた。
部屋には様々な材質、陶器にプラスチックにガラスといった花瓶があり、その中には枯れた花がいくつも刺さっていた。随分と前のことだが、一本一本私が突き挿していったことを鮮明に覚えている。目を閉じて、体の怠さ具合から一日を判断し、その度に一本、赤い花の茎を折り、水に突き刺していた。そして突き刺した赤い花が順序良く枯れていく流れを支配欲が満たされていくような感覚と共に俯瞰的に見ていたことも確かに記憶している。
こんな狂気じみたことに何の意味があるのか。そう思うこともあったが、私の心はその枯れていく赤い花によって確かに洗練されていき、心の奥の沈殿物をさらに奥底に留めて置くことができていたのだ。その沈殿物というものは厄介なもので、底に溜まっているときは覗き込む視界に大きな影響を与えない。しかし、嵐や何かの干渉により、一斉にかき乱されたとき、沈殿物に含まれていた微細な粒子が透明だった上澄みを汚していくのだ。そしてその粒子は固体の沈殿物より細かく私の心を不安定にさせるのだ。
それはつまり日常と似ている。巨大な困難や悲観的事情という非日常は急落な落ち込みと共に別の何かを生み出すことが多々ある。山火事が茂り過ぎた森を焼き尽くし、次の有益な世代のための灰屑となるのだ。そしてそういう大きなものは次世代に継承され、悲観的事情に諦めともいえるような使命感すら構築していくのだ。そういう悲観的事情の際には、花瓶の中の沈殿物など気に留めることはない。
しかし、陰湿な風によって体を弄られるような感覚に陥る日常の些細なことはそういう使命感に似たものを一切生まず、ただただ固体に対し負荷をかけていくのだ。そしてそういう些細なものは大抵の場合、我慢が効くもので、ため込むことで難なく消化される。さらに些細な鬱憤というものはふとした瞬間に噴火のように破裂することがあり、その破裂は大抵の場合、巨大な悲観的事情を手助けし、極悪な影響を引き起こすものなのだ。
この消化の作業には一定の幸福が必要であり、極端に理解すれば欲求を満たすことが必要なのだ。積もった些細な沈殿物を奥底にためておくには、それ相応の欲求解消が必要になる。
それがたまたま私は支配欲だったというだけだろう。
私がこの部屋を出た後も、体のどこかにこの部屋の記憶が染み込んでいるように思え、その染みこみはあまり良い感情を運んでこなかった。つまり、これを解消する必要があった。思い出すことによって、この荒れ果てた部屋を綺麗に片付けることができそうだと思い、ここまでやってきたのだ。
陶器でできた花瓶に三つの枯れ花が挿さっている。一番右の花が一層枯れ尽きていて、茎の青さすら全く見えない。枯れ花が花弁に持っていた生命感は当然尽き、花瓶の中の水にもそういうものは染み出ていなかった。蒸散とともに空気中に放り出されたのだろう。
その放り出された生命力が空気を伝って私に流れ込んでいるような、そういう妄想を繰り広げると、かろうじて心が軽くなった。理を完全に無視した妄想は他者から見れば嘲笑の的だろうが、思い込んだ本人には何にも代えがたい理想の的になる。
私がこの部屋に籠るようになった理由について考えるつもりは毛頭なく、ただ、具現化されない破片のような沈殿物を終始押さえつけることに意識を向けていた。
この沈殿物。一体どう表現すればいいのだろうか。具現化することはもちろんできない。心にある風景と言おうか、そういう一面を絵画に示し、これが私の心だと宣言すれば一応の形はつく。しかし、どうもこの沈殿物を描くには手段が足りないのだ。それは再現するための言語や、色、さらに言うなら、次元が足りないような気がするのだ。
そういう堂々巡りの中で私は普段通りに、絢爛と咲き誇る赤い花が保管されている箱に向かった。沈殿物を真に緩和させるにはこの表現できない物質を理解しなければならない。その先に、沈殿物から生じる不安や焦燥を緩和させる何かが見いだせるのだ。だから、私は日々、沈殿物について考える。
しかし、沈殿物について考えるということは、沈殿物をかき混ぜるということと同義なのだ。存在を無視することで巻き上がるのを阻止し、別の幸福や欲求によって存在を薄くさせる。意識を向け、考えることで巻き上がってしまった沈殿物を押さえつけ、噴火することだけは回避しようと試みるのだ。
赤い花を一本掴むとそばに置いてあるハサミで茎を切った。茎の繊維に垂直になるように真っすぐに切る。その時のハサミの音。狭い部屋に響いたその音が私の中で巻き上がりつつあった沈殿物の上昇を押さえつけた。火の用心のカンカンという音は冴えわたった空間に静寂をもたらすだろう。それと同等のものだった。
そして同時に赤い花の花びらが収縮し、脱色が始まる。数十回の繰り返しにより、些細な花弁の変化にも気づけるように感覚が研ぎ澄まされたのだ。
右手にはハサミ、左手には切り殺した赤い花。私は目を閉じながらその空気感を味わうように目を閉じていた。オーケストラの豪勢な音に酔いしれる観客のように私は狂気じみた行動に酔いしれていた。今、この瞬間に赤い花の今後が経たれ、私の一存で赤い花の生命が決まる。このまま炎の中に放り込んでもいい。花瓶にさして水をやり、ほんの少し生き長らえさせてもいい。生命を支配したという欲求が満たされていく。
余韻は自然と引き、意識が快楽から正常へと戻っていく。静寂に包まれた部屋の空気や温度を感じ始めると私は赤い花だけをもって、地面に転がっている透明な花瓶にそれを挿した。水を入れようと蛇口まで歩いたが、蛇口を捻る前にふと思いとどまった。手に持つ透明な花瓶の流線美に目が行ったのだ。
その長さは約一二センチだとすぐに分かった。CDの直径と同じだったからだ。
その花瓶の輝き具合はちょうどCDの表面に描かれているあの虹のような色合いと同じものだった。透明な花瓶だったが、傾けると虹模様が現れるのだ。
花瓶には一輪の赤い花が枯れる寸前の状態で挿されている。細長い花瓶の中には少量の水が入っていて、随分濁っていた。花瓶の底には容易には取れそうにもない水の跡がこびりつき、時間がだいぶ経ったことを感じさせた。
その花瓶は木でできたテーブルに置かれていた。そのテーブルも随分湿気を吸い取っていて、力を加えれば壊れてしまいそうな、そういう力の均衡を保っていた。そしてその力の均衡に花瓶も一役買っているようだった。
テーブルの下にはいくつもの無個性な花瓶が並べられ、そのどれもが醜く朽ち果てた植物の住みかであった。虫が湧いていそうな穢らわしさがそこにあるが、羽虫特有の音や、地面を這う虫の気配はなく、一匹たりとも部屋に侵入できていないようだった。
この部屋の陰湿な空気を最後に吸い込んだのはいつのことだろうか。毎日印をつけた日記帳によると約半年前だった。日記帳も随分日に焼けていて、最初のページなどインクが滲み出していた。
部屋には様々な材質、陶器にプラスチックにガラスといった花瓶があり、その中には枯れた花がいくつも刺さっていた。随分と前のことだが、一本一本私が突き挿していったことを鮮明に覚えている。目を閉じて、体の怠さ具合から一日を判断し、その度に一本、赤い花の茎を折り、水に突き刺していた。そして突き刺した赤い花が順序良く枯れていく流れを支配欲が満たされていくような感覚と共に俯瞰的に見ていたことも確かに記憶している。
こんな狂気じみたことに何の意味があるのか。そう思うこともあったが、私の心はその枯れていく赤い花によって確かに洗練されていき、心の奥の沈殿物をさらに奥底に留めて置くことができていたのだ。その沈殿物というものは厄介なもので、底に溜まっているときは覗き込む視界に大きな影響を与えない。しかし、嵐や何かの干渉により、一斉にかき乱されたとき、沈殿物に含まれていた微細な粒子が透明だった上澄みを汚していくのだ。そしてその粒子は固体の沈殿物より細かく私の心を不安定にさせるのだ。
それはつまり日常と似ている。巨大な困難や悲観的事情という非日常は急落な落ち込みと共に別の何かを生み出すことが多々ある。山火事が茂り過ぎた森を焼き尽くし、次の有益な世代のための灰屑となるのだ。そしてそういう大きなものは次世代に継承され、悲観的事情に諦めともいえるような使命感すら構築していくのだ。そういう悲観的事情の際には、花瓶の中の沈殿物など気に留めることはない。
しかし、陰湿な風によって体を弄られるような感覚に陥る日常の些細なことはそういう使命感に似たものを一切生まず、ただただ固体に対し負荷をかけていくのだ。そしてそういう些細なものは大抵の場合、我慢が効くもので、ため込むことで難なく消化される。さらに些細な鬱憤というものはふとした瞬間に噴火のように破裂することがあり、その破裂は大抵の場合、巨大な悲観的事情を手助けし、極悪な影響を引き起こすものなのだ。
この消化の作業には一定の幸福が必要であり、極端に理解すれば欲求を満たすことが必要なのだ。積もった些細な沈殿物を奥底にためておくには、それ相応の欲求解消が必要になる。
それがたまたま私は支配欲だったというだけだろう。
私がこの部屋を出た後も、体のどこかにこの部屋の記憶が染み込んでいるように思え、その染みこみはあまり良い感情を運んでこなかった。つまり、これを解消する必要があった。思い出すことによって、この荒れ果てた部屋を綺麗に片付けることができそうだと思い、ここまでやってきたのだ。
陶器でできた花瓶に三つの枯れ花が挿さっている。一番右の花が一層枯れ尽きていて、茎の青さすら全く見えない。枯れ花が花弁に持っていた生命感は当然尽き、花瓶の中の水にもそういうものは染み出ていなかった。蒸散とともに空気中に放り出されたのだろう。
その放り出された生命力が空気を伝って私に流れ込んでいるような、そういう妄想を繰り広げると、かろうじて心が軽くなった。理を完全に無視した妄想は他者から見れば嘲笑の的だろうが、思い込んだ本人には何にも代えがたい理想の的になる。
私がこの部屋に籠るようになった理由について考えるつもりは毛頭なく、ただ、具現化されない破片のような沈殿物を終始押さえつけることに意識を向けていた。
この沈殿物。一体どう表現すればいいのだろうか。具現化することはもちろんできない。心にある風景と言おうか、そういう一面を絵画に示し、これが私の心だと宣言すれば一応の形はつく。しかし、どうもこの沈殿物を描くには手段が足りないのだ。それは再現するための言語や、色、さらに言うなら、次元が足りないような気がするのだ。
そういう堂々巡りの中で私は普段通りに、絢爛と咲き誇る赤い花が保管されている箱に向かった。沈殿物を真に緩和させるにはこの表現できない物質を理解しなければならない。その先に、沈殿物から生じる不安や焦燥を緩和させる何かが見いだせるのだ。だから、私は日々、沈殿物について考える。
しかし、沈殿物について考えるということは、沈殿物をかき混ぜるということと同義なのだ。存在を無視することで巻き上がるのを阻止し、別の幸福や欲求によって存在を薄くさせる。意識を向け、考えることで巻き上がってしまった沈殿物を押さえつけ、噴火することだけは回避しようと試みるのだ。
赤い花を一本掴むとそばに置いてあるハサミで茎を切った。茎の繊維に垂直になるように真っすぐに切る。その時のハサミの音。狭い部屋に響いたその音が私の中で巻き上がりつつあった沈殿物の上昇を押さえつけた。火の用心のカンカンという音は冴えわたった空間に静寂をもたらすだろう。それと同等のものだった。
そして同時に赤い花の花びらが収縮し、脱色が始まる。数十回の繰り返しにより、些細な花弁の変化にも気づけるように感覚が研ぎ澄まされたのだ。
右手にはハサミ、左手には切り殺した赤い花。私は目を閉じながらその空気感を味わうように目を閉じていた。オーケストラの豪勢な音に酔いしれる観客のように私は狂気じみた行動に酔いしれていた。今、この瞬間に赤い花の今後が経たれ、私の一存で赤い花の生命が決まる。このまま炎の中に放り込んでもいい。花瓶にさして水をやり、ほんの少し生き長らえさせてもいい。生命を支配したという欲求が満たされていく。
余韻は自然と引き、意識が快楽から正常へと戻っていく。静寂に包まれた部屋の空気や温度を感じ始めると私は赤い花だけをもって、地面に転がっている透明な花瓶にそれを挿した。水を入れようと蛇口まで歩いたが、蛇口を捻る前にふと思いとどまった。手に持つ透明な花瓶の流線美に目が行ったのだ。
その長さは約一二センチだとすぐに分かった。CDの直径と同じだったからだ。
その花瓶の輝き具合はちょうどCDの表面に描かれているあの虹のような色合いと同じものだった。透明な花瓶だったが、傾けると虹模様が現れるのだ。