赤秋の恋(千代)
千代の父親は、千代が小学5年生の時にがんで他界した。千代は佐藤に父親の面影を感じていたのだ。少しの時間でもいいから、この時間を千代は、親孝行の真似ごとをしたかった。その気持ちの中に、佐藤を1人の男と感じる気持ちも芽生えていたのかも知れない。
「今日会ったばかりなのに変でしょうけど、ハグしていただきたいの」
佐藤はそれはできないと思った。暗闇の中、男と女が抱き合えば、まして、ロマンな気持ちになっている。
千代は自分から佐藤の体に手をまわして、しっかりと抱いてきた。
佐藤は軽く抱いた。佐藤にとっては、忘れていた行為であった。柔らかな女性の体の感触・・ピアスの小さなダイヤの光が、スピカのように感じた。
佐藤は探し求めていたものが見えた気がした。自由奔放な生き方の千代、生きること、それは自分自身のためが第一ではないか、千代からそんなことを学んだ気がした。
佐藤は、千代の家に泊まることは断ろうと心に決めた。そして千代の身体から離れた。物足りない、そんな気持ちの雰囲気が漂った。
「帰りましょう」
千代の元気な声。佐藤は、望遠鏡を片付けだした。
車に乗った時には、ハグした時の雰囲気は残っていなかった。ただ、2人の会話は少なかった。
「ごめん。泊まることはできないです」
「どうして、気が変わったの」
「男は、親切にしていただいたことに、勘違いして」
「ハグね。そう、父親のつもりのようで、キスぐらいは期待していたの」
「ぼくは幸せな家庭を壊すこと・・・」
「まじめに考えないでよ。私たち愛している夫婦なの。キスぐらいでは壊れないと思う」
そうかも知れないと佐藤は思った。金の力のほうが壊れやすいのかも知れない。
「本当にありがとうございました」
街に着くと
「ここで降ろしてください」
と佐藤は言った。
「本気なのね。荷物はどうするの」
「処分してください。リックの中のポケットに、女性用の時計が入っています。其れは今日のお礼に差し上げたいと思います」
「お礼はいらないわ」
「ぜひ、貴女に使って欲しいからです」
その時計は、離婚した妻が返したものだった。バセロン・コンスタンチン150万円程の時計である。
「佐藤さんが大切にした時計でしょう。頂けないわ」
「ぼくには時間は必要ないのです」
「1度戻りましょう」
佐藤は深くお辞儀をして、足早に去っていった。