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短編集24(過去作品)

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 耳を澄ませていると聞こえてくる声は、きっと私を意識してのことだろう。開いた扉から入ってくる表の冷気は、中の暖かさとはあまりにも違うからだ。靴を脱ごうかどうしようか迷っている私だったが、意を決して脱ぎかかった時、中から瑞樹が出てきた。
「いらっしゃい。お待ちしていましたわ」
 先ほどの罵声が嘘のように控えめな声だ。その声もその後のヒソヒソ話の声とは明らかに違っている。何となく取り繕ったようにも見えるのは、息が荒れているからだろうか。ゆっくりと深呼吸でもしているかのように見えるのは、気のせいではなさそうだ。
 少し唖然として瑞樹を見ていた私は、瑞樹の表情に圧倒されたかのようだ。何かをいいたかったのだが、言葉を忘れてしまっていた。きっと電話の相手が誰か知りたいのだが、どう切り出していいか分からない。電話の調子では、ただの友達や同僚というわけではなさそうだ。もっと親密な仲の人に違いない。
 気になり始めると気になる方で、しかも今日訪れたことと何か関係がありそうで仕方がない。
 今日ここへ来たのは、私から話があったからだ。
「明日の夜行っていいかい?」
 電話でそう告げた。いつも瑞樹の部屋を訪れる時は、前もって連絡を取っている。連絡がほしいとあらたまって言われたことはないが、これも礼儀である。瑞樹も分かっているはずである。
「ええ、お待ちしていますわ。私もお会いしたいと思っておりました」
 自分から積極的なことをあまり言わない瑞樹にしては、少し意外だった。甘えん坊のところはあるが、それはベッドの中で、無防備になっている時だけである。すべてを私に委ねながら究極の快感を漂う時、瑞樹は甘えるのだ。
 そんな瑞樹がいとおしい。私が幼少の頃に戻れるのは、瑞樹とのベッドの中でのひと時だった。お互いに子供の頃に戻り、甘えるのだ。
 そんな瑞樹が電話で会いたいと訴えてきた。嬉しさ半分、不安が半分募ったのも事実で、その時の不安が電話の声により現実になったようで怖かった。
 本当に聞いたこともないような瑞樹の声を私は青天の霹靂の思いで聞いていたのだ。
 私はハッと我に返ると、靴を脱ぎ、さっさと中に入り、リビングへと進んだ。
――勝手知ったる他人の家――
 かなり久しぶりだと思ったが、入るとまるで昨日も来たような錯覚に襲われた。リビングを照らすシャンデリアの明かりがいつもより明るく感じるのは気のせいだろうか。
 まるで自分の部屋のようにソファーに腰を下ろした私に、瑞樹はキッチンから、
「コーヒーにします? それともウイスキーがいいかしら?」
 いつもであれば最初はコーヒーから入る。キッチンから香ばしいコーヒーの匂いがしているが、温かさを誘うようで、きっと今はコーヒーの気分なのだろう。
「じゃあ、コーヒーをもらおう」
 そう言って私はカウンターの上にある時計を見つめた。時刻は午後八時を少し過ぎたところで、仕事が終わってからから来るといつもこの時間になる。約束もちょうど八時にしていたので、時間的には問題なかった。
 私がこの部屋で時間を気にすることはあまりなかった。気にしていても時間をあまり感じることはなく、時計を見てもそれは漠然と見ているだけだった。
 コーヒーが出来上がってくる。私専用のカップに半分くらい注いでくるが、それは私の適量でもある。
 カップを口元に持っていって、一口飲むのをいつも瑞樹は黙って見つめている。
「おいしいぞ」
 という私の言葉を待っているのだ。瑞樹はそんな女だ。好きな相手にはどんな些細なことでも確かめたくなる性格なのだろう。私にはそれが嬉しかった。
 今日のコーヒーはいつになく酸味が効いている。久しぶりに美味しいコーヒーを飲んだような気がする。ひと時の落ち着いた時間に浸れそうだ。
 一口含んだコーヒーを口の中で十分に堪能している。ビールもそうなのだが、コーヒーも最初の一口が一番美味しい。特に瑞樹の入れてくれたコーヒーはそうだ。二口目から美味しくないというわけではない、とにかく最初の一口がすべてなのだ。
 冷え切った体が徐々に温まってくるのを感じる。一口のコーヒーが温かさを身体に注入してくれたのだ。きっと頬が紅潮していることだろう。瑞樹にもそれが分かっていると思う。
 グラスを置く、乾いた音が部屋に響いた。少し暖かさのせいで、眠気が襲ってきていたところでのコーヒーはありがたい。
 コーヒーが飲めるようになったのは大学に入ってからだった。高校の頃までは苦さが私にはダメだった。しかし大学に入り先輩に連れて行ってもらうようになると好きになっていた。
 元々アルカロイドを含んでいることもあり、飲みつけたら、ないと精神的にきつくなってくる。しかもコーヒーの味が、大学に入ってできたゆとりを象徴しているかのようで、お気に入りになったのだ。コーヒーを飲むと落ち着けるようになっていた。
 私の目の前にコーヒーカップを持った瑞樹が鎮座している。口に何度もカップを運んでは、少しずつ喉に流し込んでいるようだ。
 琥珀色のコーヒーに瑞樹は目を奪われている。どちらからも話す様子はなく、重くなってきた空気を感じていた。よく見ると瑞樹も時間が気になるのか、ちょこちょこ時計を見ている瑞樹に気がついた。思わず同じタイミングで時計を見ようとしてお互いにハッとしたのか、二人とも時計から慌てて目を離した。
 さらに重たい空気が流れる。
 それを察知した瑞穂はテレビのリモコンを入れテレビをつけるが、どちらもテレビなど見ているわけでもなく、ただのBGMとして何もなかったかのように、番組は進行していく。
 瑞樹がこれほど会話をしないなんて初めてだ。どちらかというとこんな雰囲気は大嫌いで、我慢強いわけでもない瑞樹はよく耐えている。こんなに耐えることのできる女ではなかったはずだ。よく見ると震えていて、額から汗が光っている。時計を見る間隔も頻繁になり、落ち着きのなくなっていくのが手にとるように分かる。
「何かお話があったのでは?」
 痺れを切らした瑞樹が切り出した。
「ああ、君は僕のことをどう思っているのかと思ってね」
 最近の瑞樹は、どうも私と一緒にいても、どこか上の空のところがある。私のことを一番よく分かっていて、行動パターンまで熟知している瑞樹は、私の行動を以前ならしつこいくらいに見ていた。しかしそれが最近は気にかけるどころか、一緒にいても集中しておらず、心ここにあらずといったところである。話し掛けても聞いているのかいないのか、私の話題に触れるのを避けているように感じる。
 実は瑞樹の女性友達に聞いたこともあった。
「そうね、私たちと一緒にいる時でも最近は何を考えているか分からない時があるわね。私はずっと福重さんのことを考えていると思っていたわ」
 と話してくれたのは、瑞樹と知り合ってから最初に
「私にとっての一番の友達なの」
 と紹介してくれた水沼八重子さんだった。どうやらその相手が誰か八重子さんでも分からないようだ。私と一緒にいる時にも上の空なので、私であることはありえない。何か悩みがあるのだと思っていたが、女の直感みたいなものがあるのか、八重子さんは瑞樹の心の中に誰かいると察知したようだ。
作品名:短編集24(過去作品) 作家名:森本晃次