師恩
?どうして!” 藤野先生は一歩前に進み出て、周樹人を見つめ、?君は一心に西洋医学を学び、ちょうど、進歩が見えていたではないか?それなのに、なぜ……なぜ中断してしまうのだ?”
“先生、聞いてください――” 周樹人は語気をやや緩めて、出来るだけ丁寧に説明する。?西洋医学でも、中国の医学でもいい
です。でも、清国の愚か者、悪辣な愚か者が相手では、医学で治すことができるでしょうか?……ダメなんです、出来ないんです!あの愚か者はどこが悪いって、思想が悪いのです。魂が病んでいるのです。……ですから僕は、筆を執って――この筆というメスで、奴らの頭の中の病巣を切り取ろうと決心したのです!”
藤野先生は腰を下ろし、眼鏡をはずし、ゆっくりとレンズを拭きながら、静かに口を開いた:?周君、聴いたよ、君はあのニュース幻灯を見て、心を傷めたんだね、感情的になるのは無理もないことだ。でも、本当によく考えたのかね?”
?よく考えた上のことです!その上で退学することにしたのです!”周樹人は恩師の前で姿勢を正す。
?ううむ……医学のメスとて使いこなすのは容易ではない、魂のメスも容易ではないと思うが?”藤野先生は何とか考え直せないものかと、試すように問いかけた。
周樹人は胸を張る。?先生のご指導には感謝しております!魂のメスは確かに容易には使いこなせません。でも、僕は一生これを振るい続ければ、きっと大人を、いやそれ以上に子供を救えると信じています!”
藤野先生は立ち上がると、慈しみを込めて周樹人の洗濯ブラシのようにはねた髪をなでて優しく整える。そして、机の方に向って引き出しから一枚の写真を取り出した。――それは藤野先生の上半身の肖像だったが、藤野先生はそれを裏返し、筆を執ってかがむと、真っ白な写真の裏面に「謹呈周君」という、文字を書いた。周の文字は太く力強く書かれた。藤野先生は少し考えると、また、この白い裏面の右側に 惜別、藤野と書いた。
カメラが写真の画面から引いて遠のくと、写真は既に周樹人の両手に受け取られていた。周樹人は恩師藤野嚴九郎先生に深々とお辞儀をし、再び、お辞儀をし……三度お辞儀を済ませると、胸がいっぱいになり、目に涙を浮かべてゆっくりと先生の宿舎を出て、振り返って名残惜しそうに戸を閉めた。
(二十三)
汽笛を響かせ、汽車が原野を疾走する。
窓際に座った周樹人は、まだ藤野先生の写真を手にして、恩師の面影をじっと見つめている。写真の裏の「惜別 藤野」などの文字がはっきりと見える。
魯迅の声:
藤野先生のこの?惜別”の二文字は、二十年前、私と別れる時に書いてくださったものだが、その心から別れを惜しむ気持ちは、私周樹人の心の扉を明るく照らしてくれた――。あの時、私は陳天華との別れを体験したばかりであり、また引き続き、秋瑾とも永遠に別れることになった。その後も、どれだけの別れがあったことか……。だが、私はこの?惜別”はきっといつか再会に報われると固く信じている。――人々の理想と抱負の再会――人々の再会を渇望する無限の力に報われることを!
車窓の外の木々はすごい速さで後ろへ遠のく――
木々は周樹人たちの奔走する姿に変わる;
周兄弟は苦労の末、雑誌《新生》を刊行する;
許寿裳等は学校で《浙江潮》を校正し、植字する……
魯迅という筆名が次々と紙上に現われる――
《狂人日記》?子供を救え!” ?歴史を紐解けば、「吃人(人を食う)」の二文字に満ちている!”
《阿Q正伝》?その不幸を哀しみ、その闘わざるに憤る” ?二十年後にはまた一人の好漢”
《?(薬)》?人の血を吸ったマントウが人を救うことなどできるだろうか!” ?墓前の花は、誰が捧げたのか?”
《故?》?この世界に初めから道はない、歩く人が多くなるとそれが道になるのだ”
(エピローグ)
上海万国共同墓地。葬送曲が人々の涙を誘う。
葬儀参列客の待合室。黒い喪服の参列客たちは礼儀正しく互いに慰藉(いしゃ)を交わす。
「魯迅先生遺品収集所」の立札と収集台の傍らに、許広平と宋慶齢が厳粛な面持ちで立っている。多くの参列客が秩序正しく列について進み、順次書簡などの大切にしまっておいた品物を差し出す……許広平はそれらを記帳し、宋慶齢が分類整理した。
クローズアップ:プロローグで現れたあの藍印花布が、ゆっくりと解かれている。現れたのは重ねられた「授業ノート」――
周樹人、仙台医学専門学校在学中における心境の変化の過程:
開いたノートの1ページは人体解剖学の循環器系統図。
図がだんだん拡大されると、ひじから手首までの腕の血管がはっきりと見える……
増田渉の声:
?当時、周樹人はこの血管をより見栄え良く描こうとして、少し位置を動かした、藤野先生はそれをもとの位置に戻して、図の上で見栄えが良くても、解剖の時には見えないよ……とおっしゃったそうです。藤野先生は周樹人の先生で、魯迅先生は私の先生です。私が語ってきたのは先生と先生の先生の縁です。皆さんにもご自身と先生との物語があるのではないですか?きっとおありだと思います。それにしても良き師となることはなんと得がたく尊いことか!”
……腕の血管が次第に一本の筆に変わる。魯迅が速い筆の運びで書いている。字には血と涙が滲んでいる:子どもを救え!
(終)