小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

師恩

INDEX|13ページ/15ページ|

次のページ前のページ
 

海岸の奇妙な形の岩礁に波が打ち寄せ、飛沫を上げている。干潟の波は、寄せては返し、その度に砂浜が見え隠れする。一匹の大きな蟹が大儀そうに、迷いながら新しい波の跡へ向って行く……。

大都会上海の高い建築物は、外灘に林立している。黄浦江の濁った水の上を、外国の貨物船がゆっくりと行き来して、奇妙な汽笛を鳴らしている。
魯迅は黄浦江を見下ろすベランダに立ち、どんよりと曇った東の空を眺めている。硬い短髪が風に吹かれるままになっている。この時、魯迅は振り返って吸っていた煙草を消した。両の手は後ろで組んでいる。唇をしっかりと閉じ、物思いにふけった目をしている。
 ?先生、また日本のことを考えているのですか?”黙って本棚の前に立っていた増田渉が、手に原稿を握って、魯迅の後ろに立ち、丁寧に話しかける。?すみません!お邪魔ではなかったでしょうか……”
すると、?ほほ、先生は学生が訪ねて来るのを煩わしいと思ったりしませんよ!”と許広平が急須を手にやって来て ?それより、私のお茶の入れ方が気になるようですわ……”と続けた。
魯迅は目を凝らしたまま、?いや、いや、増田君が今聞いたことを、私もちょうど考えていたんだよ。――秋瑾が紹興の大道学堂で逮捕された時、少しも死を恐れなかったが、彼女は本当に死ななければならなかったのだろうか?”
増田渉は原稿を開くと、表紙の《?(薬)》の文字が見える。?私は先生の小説を読んでわかりました。秋瑾は小説の主人公のモデルで、彼女の血が一個のマントウを染めたのですが、このマントウは決して良い薬にはならず、世の中にはびこる病を治すことなど到底できない!”
魯迅は振り返って、この察しのいい日本の学生を頼もし気に見ると、その手から原稿を受け取り、表紙の《?(薬)》の文字を叩きながら、?そうだよ!薬はその症状に合ったものを、適切な時期に処方しなければならない。問題は、ここにあるんだ。――秋瑾たちの反清政府の義挙は、辛亥革命に四年も先立つ時期に、性急に行われたが、結局惨めな失敗に終わった……”

(画面がオーバーラップ)
紹興府政府の?古軒亭口”の処刑場は四方にたいまつが灯り、夜明け前の暗闇の中で、一層気味悪く恐ろしげである。
刑場の周囲にはびっしりと兵士が配置されている。兵士の後ろにひしめいているのは押し寄せてきた群衆である。彼らは恐ろしさに緊張し、好奇の念で茫然とした表情をしている。
秋瑾は囚人服をまとい、手かせをはめられ、よろめきながら刑場の前方にある机の方に歩いて行き、卓上の墨と筆と紙を一瞥した。そして、平然と微笑み、手を伸ばして筆を執り、ゆっくりと顔をあげて天を仰ぎ、たちまち身をかがめて筆を走らせた。秋風秋雨愁殺人(秋風秋雨人を愁殺す)――

?ボ―!ボボ――”外国の貨物船が汽笛を鳴らし、いささか興ざめの感がある。
魯迅が続ける。?秋瑾が義に殉じる前に書いた「秋風秋雨愁殺人」の七つの大きな文字は正に彼女の国と民の行く末を憂いながらも、志半ばにして果てた心の叫びなのだ。”と言いながら、手にした原稿を増田渉に返した。
?実に敬服すべき鑑湖女侠だったのですね!惜しい方を亡くしました……”と、増田渉は原稿の表紙を叩く。
?ああ! そうやって叩くのだよ、人々はあの女仁侠を前にして、あんなにも多くの拍手を贈った――”魯迅は感慨深げに?もしかしたら、その拍手が、彼女を死へ送ったのかもしれない!”
?分かります!拍手は人を奮い立たせますが、人を死に至らしめることもある。” 増田渉は何かを悟ったかのように、?先生!先生の本にある「?(薬)」は、人を救いまた傷つけるという意味があるのですね?それならば、本当の良薬、先生は見つけられましたか?”
?見つけたとも!”魯迅は目を見開き、興奮しながらも、秘密めいた口調でこう続けた。?実はね、結局はやはり仙台で、藤野先生のところで見つけたんだよ!“
?おお! そうでしたか……”増田渉は何が何だかわからない。

(二十)
?東京駅”。行き交う汽車の汽笛が?ポー!ポー――”と響く。
周樹人は軽装で旅立とうとしている。発車を待つ車両の入り口付近に立ち、許寿裳がうなだれて寄り添っている。
?君、どうかしたのか?何を考えているんだ?”周樹人は顔をあげ遠くを見たまま尋ねる。
?陳天華が自殺し、秋さんは帰国してしまい、君は仙台へ行くという。僕は、僕はやりきれないよ……”許寿裳はこらえきれず涙を流す。
周樹人は急いでハンカチを取り出すと許の手に握らせて、?男だろ、涙は心の中に落とせ! しかし、今回仙台に戻ったらいつまた東京に来るかなあ?”
許寿裳は更に感傷的になって、泣きべそをかきながら?君、何とか早く帰って来られないのかい?”
?来たよ、来たよ!“ 周作人が煙草の包みを抱えて駆け付け、息を切らして?兄さん!ご指定の煙草がなかなか見つからなくてね、 でも、やっと手に入ったよ……”
今一度汽笛が鳴る! 周樹人は慌ててポケットからお金を取り出すと、全部周作人に渡し、汽車に乗りながら、?作人、兄弟の仲でも、お金はきっちり計算しなけりゃね、煙草の代金をちゃんと数えて、多かったら、次会ったとき返してくれよ! はは――”汽車が動き出した。
?はは、返すもんか、次に会ったときご馳走してもらったことにするよ!”窓の外の周作人と許寿裳の姿がどんどん小さくなっていく……

汽車は原野をひた走る。
周樹人は通路側の席に座り、窓の外の景色を見ていた。懐か煙草の紙箱を取り出すが、目は窓の方を見ている。両手で煙草の紙箱を破ったが、一本の煙草も出てこない。そこで、振り向いて立ち、荷物棚から買ったばかりの煙草を取り出して座り、悠々と火をつけた。
汽車の窓の外の木々は次々と去っていく。周樹人の目に映っているのは人の姿だった――
陳天華が決然と海に飛び込む姿;
秋瑾の演説に沸き起こる雷鳴のような拍手;
周作人が《域外小説集》の翻訳に没頭する姿……
周樹人は急にぶるっと身震いした。煙草の火で指を火傷しそうになっていたのだ。慌てて腰を曲げ、煙草の火を消す……。この時、汽車が駅に着いて、乗客が次々と乗り込んできて、瞬く間に空席がふさがった。
年輩の農婦が重い包みを提げてふうふう言いながら周樹人の近くまでやってきた。彼女はまだ奥へ行こうとしているようだった。周樹人はさっと立って、?おばあさん、ここ空いてますよ、どうぞ!”と言うや、手を伸ばして包みを取り上げ、持ち上げて荷物棚に載せた。年輩の農婦は驚き、喜んで?有難う!有難う――”と言って腰を下ろすと、申し訳なさそうに?あれまあ、この席は温かいよ、あんたさん、ご自分の席を譲ってくれたのかえ?”
周樹人は?同じことですよ”と笑って?誰が座っても温まります。おばあさんは、ご高齢なのに大変でしょう、ゆっくり座って休んでください!”
作品名:師恩 作家名:芹川維忠