短編集23(過去作品)
「それもあるかも知れないけど、とにかく懐かしさなの」
私は子供の頃にしていた表情を今でもしているだけである。逸子の子供時代に、友達に同じような表情をする人がいたのだろうか? それでずっと前から知り合いだったような気がするという気持ちになったのだろうか?
逸子にとって私とは、私にとって逸子とは、一体どんな存在なのだろう?
そういえば、最近の私は逸子とだけしか待ち合わせをしたことがない。彼女が欲しいと思いながら、
――逸子は彼女ではないのだ――
と心の中で言い聞かせては、いつも誘う相手は逸子だった。きっと一緒にいて話をすることで、自分が安心したいだけなのかも知れない。しかし、本当にそうなのだろうか?
逸子と一緒にいて、本当に安心できるかというと、それもハッキリしない。時々、見透かされたような目つきを浴びせられ、金縛りにあったような息苦しい気持ちになることがある。とても嫌なはずなのに、嫌だという気持ちをすぐに忘れてしまっているようだ。元々嫌なことをずっと覚えていない方なのだろうが、何度も同じような思いをしていれば、いい加減嫌になるはずなのに、なぜなんだろう?
――ひょっとして、その時々で心境が違うのかも知れない――
と感じる。逸子に見透かされながらも、同じ心境にならないということは、私自身、同じ心境の時に、逸子からの視線を感じているのではないのだろう。私が気付いていないだけの時もあって、絶えず同じような視線で見つめられているということなのだろうか? それを確かめるのも怖い気がする。
待ち合わせをするのは、それを確かめたいから?
いや、そうではない。本当に会いたいからなのだ。心の中では、そのうちに逸子を彼女と呼べる日が来ることを望んでいるのかも知れない。
待ち合わせはいつもの場所、それだけに電話で待ち合わせの約束をする時は、実に簡単である。時間も曖昧で、お互いの仕事が終わってくるので、遅れそうな時だけ連絡する。恋人同士というわけではないので、あっさりしたものなのかも知れない。もしこれが恋人との待ち合わせだとしたら、きっと細かいことまで決めるだろう。楽しいからだ。
いつも同じパターンだからというわけではないのだろうが、なぜか待ち合わせの時は雨が降っている。ひどい降り方ではなくて、シトシトと降っているのだ。
近くにあるトタン屋根のような簡易な屋根に響く音は、遊びにいけずに寂しい思いをしていた子供の頃を思い出させる。寂しさは子供だけではないのだ。大人になった今も雨の音を聞くと寂しい思いになるのはなぜなのだろう? 楽しい待ち合わせのはずなのに、意識が雨だれの響くトタン屋根に行ってしまうことに感じる寂しさなのかも知れない。
私は、何かを感じるといつも子供の頃を思い出してしまう。何かトラウマがあるわけではないのだが、きっと子供の頃の方が時間を長く感じたからではないだろうか?
――それだけいつも真剣に見ていたのかな?
確かにそうかも知れない。今は見たことや聞いたことをすぐに忘れてしまう。何よりも感動しなくなったことが一番大きいだろう。
子供の頃には感動があった。見るもの聞くものすべてが新鮮だった。最近、よく感じるのは、何かを見て、
――これは子供の頃に感じたことがある――
という思いであった。それがどんな時だったかまでは思い出せないのだが、心の奥にしまいこんでいたものが湧き出してくるような感覚に襲われる。それは決して嫌なものではなくて、むず痒いような感覚で、実に不思議なものである。
逸子との待ち合わせの時に、子供の時のことを思い出すことが多い。しかし、それはいつも同じシチュエーションではなく、それぞれで違うものなのだ。だが、すべてが心の奥にしまいこまれていた記憶であることに間違いはない。
待っていて苦痛だと思ったことはない。懐かしさで頭がいっぱいになっているからだろう。そんな時に現われる逸子に対してきっと私は、昔の友達に会った時のような懐かしい表情をしていることだろう。
「ごめんなさい。待った?」
そういいながら近づいてくる逸子を見つけた私はいつものように右手を軽く上げ、気がつけば微笑んでいた。
――あれ?
いつもであれば、懐かしい思い出から引き戻されて咄嗟の表情を浮かべるはずなので、自分の表情に対する意識などないはずなのだが、今日に限ってそれがない。自分がどんな表情をしているか想像がついたのだ。こんな感覚は今までにはなかったことだ。
私の表情がいつもと違うのが分かったのだろうか? それにしても私を見る目に不安がよぎっているように感じる。確かにいつもと違うのだろうが、私が普通の表情になっているのが、よほど不思議なようだ。
「いや、それほど待ってないよ」
待ったといえば待った、待っていないといえば待っていない時間である。私が約束に遅れるのが嫌で、いつも約束よりもかなり前から待っているだけなのである。特に最近は昔のことを思い出す時間があるので、待っていることも楽しみになってきていた。
逸子はそれほど早く来る方ではない。かといって時間に遅れるわけでもない。待ち合わせ時間ギリギリにいつも現われるのだ。別にキッチリとした性格というわけではない。どちらかというとズボラな性格で、女性としては珍しい方だろう。だが約束を破ったことはない。気を遣っていないつもりでもしっかりしているのだ。
私はそんな逸子のさりげなさが好きである。
今まで付き合った女性は、皆私に気を遣ってくれていた。約束の時間に遅れることはおろか、私との待ち合わせでも、私を待たせたりすると大袈裟に謝ってくれる。嫌ではないのだが、却ってこちらも気を遣ってしまい、笑うしかない時があるくらいだ。きっと苦笑いをしていたことだろう。
逸子に感じるさりげなさは、私に決して気を遣わせることをしない。それが一番ありがたかった。「ごめんなさい」と謝りながら照れ臭そうに浮かべる笑みが、私には嬉しかったのだ。
だが、今日はいつもと雰囲気が違うことに最初から気付いていた。気を遣わないで済むのは、逸子の照れ臭さを含んだ屈託のない笑顔からである。照れ臭そうに笑うのと、苦虫を噛み潰したような苦笑いとは明らかに違うもので、初めてそんな顔を見たような気がする。
いつも待ち合わせ場所の近くにある喫茶店にいくのだが、それは雨が降っていても降っていなくても同じである。傘を差して一歩表に踏み出すと、足元の水溜りに写ったネオンサインを自分の足が掻き分けるのを感じる。
傘が濡れるほどの距離を歩くわけでもなく、私の傘一本で移動するので、自然と相合傘になる。そんなひと時が私には嬉しかった。急いできたのか、まだ息遣いが少し荒めな逸子を見下ろすと、それに気付いて逸子は見上げてくれる。それがいつものパターンであるにもかかわらず、見上げようとしない逸子は、やはりいつもと違っていた。
対人恐怖症を感じている私は、少し不安になっていた。逸子に対していつもであれば、紳士的な振る舞いをしていた自分が分からなくなりそうな気がしたからである。
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次