短編集23(過去作品)
その人の視線は私の手に持っている本にあることを最初分からなかった。てっきりこちらの顔を見て会釈しただけだと思ったからだ。聡いたちなのかも知れない。
「どうかしましたか?」
私が言うと、その青年は自分の読んでいる本のカバーを外し、こちらに見せた。
「あ、奇遇ですね。同じ本を読んでいたんですね」
私は本にカバーをあまり掛ける方ではない。本を買うとつけてくれるが、読み始めると外してしまう。持ち歩くのに不便だと思うからだ。
それにしても本自体のカバーもついていなのに、タイトルが分かるとはかなり視力がいいのだろう。
「でも私はあまり奇遇だとは思っていないんですよ。実は夢でも同じものを見たんです」
「といわれると?」
「私はあまり予知夢というものを信じる方ではないのですが、今回は何となくリアリティがあったんです」
どうやら青年には普通の夢と予知夢を見る時とで何かしらの違いがあるようだ。
「それは一体?」
「私は仕事の関係上、不規則勤務なんですが、そのため夜寝て朝起きる時、そして朝寝て夕方起きる時と二パターンあるんですよ。それでいつもあんまり熟睡というものができないんですよね。要するに眠りが浅いんです」
その気持ちは私にも分かる。やはり彼は大学生ではないようだ。私の予感は当たったのである。男は続ける。
「眠りが浅い時は自分が今寝ているのが、昼間なのか夜なのか分かるんですよ。そんな時の夢って、あんまり鮮明に覚えていないものだし、もちろん、気にすることもありません。ですが、今朝起きた時は前が夜勤だったこともあったのでしょうが、まるで夕方に目がさめたような感じがあったんですよ、逆なら分かるんですが、違うパターンを覚えていたということはそれだけ熟睡していたんだと思います」
夢というのは起きる寸前の微々たる時間に見るものだと聞かされたことがある。それだけに目が覚めるにしたがって見た夢を忘れていくものだと認識している。夢でいくら果てしない時間を感じていたとしても起きてから次第に目が覚めていく時間が長く感じられるのに反比例するかのように、短く感じていくのは、きっと目が覚める寸前に夢を見ているからだと思っていた。
「それで?」
私はさらに相槌を打つ。
「ということは、きっと夢も忘れないでいるだろうと思っていたら案の定、目が覚めていくにしたがって忘れるという感じではないのです。夢の続きでもあるかのように頭に残っているのです」
「すべてがですか?」
「いえ、夢に出てきた光景や人物の顔などは鮮明ではないのですが、知っている人であれば分かります。しかし出てきた人は初めて出会う人だったので、雰囲気だけですね」
「ひょっとして私だったりして」
思わず笑みを零しながら茶化すように呟いた。
すると男は身を乗り出すようにして、ますます興味津々の表情で、
「ええ、そうなんですよ。あなたの顔を見れば見るほど夢に出てきた人のようで、不思議ですね」
「そう言われれば、私も何か以前の夢でそんなことを言われたような気がしてくるじゃありませんか」
苦笑しながら答えたが、答えながらまんざらでもない気がしてきたのはなぜだろう。男も私の表情で何となく分かったのだろう。
「あなたも同じような経験がおありなんですね」
私はゆっくりと頷いた。
「実は私、あまり本を読む方ではないんです」
男はしみじみと話し始めた。何となくそれが言いたかったのではないかという直感があり、目が訴えているように感じられた。
「私もどちらかというとじっくり本を読む方ではないですね。じっくりと読んでいると眠くなっちゃうんですよ」
「私もそうなんですが、本当の理由は違うところにあるような気がするんです。きっとせっかちなんでしょうね」
「私もそうかも知れないです。気がついたらセリフばかりを読んでいてストーリーの流れを薄くしか感じる方ではなかったですね」
話を聞いているといちいちこちらからも話したくなる。きっと私が言おうとしたことを先に言われてしまうのが癪で、自分から言ってしまわないと気がすまないからだろう。せっかちと言われるゆえんである。
「それよりもですね、私が今一番気になっているのは、最近、今までの行動パターンと違うことをしていることなんです」
「と、おっしゃると?」
「私はせっかちな性格であるからかも知れないのですが、行動パターンは守りたい方なんです。迷信のようなものを信じているからだと思うのですが、敷居を跨ぐ時にどちらの足から跨ぐとか、いつも決めていて、それが癖になっているんですね。習慣というべきですか」
「あなたに限らず、私も同じようなところがあります。でも、無頓着な人は本当に無頓着ですからね」
「そうですね。でも私が本を読むことに限っては、今までの習慣にはなかったことなんですよ」
「以前から子供の活字離れが指摘され、社会問題にまでなってますよね。私も以前はほとんど本を読んだりすることはなかったんですよ。でももし予知夢のようなものが見れるとすれば、私は本の世界の出来事が現実になって現われる可能性が一番強いのではないかと感じたことはありました」
それは本当だ。特に本を読むことを始めた中学時代など、そう思っていた。下手をすると、本の世界と現実の世界の挟間で、自分の本当の世界が分からなくなっていたのかも知れない。なるほど、男のいう「習慣」という言葉、そう考えれば自分の今の生活がその「習慣から成り立っていると考えることは難しいことではないだろう。
しかし予知夢と自分の世界の関係については、きっと結論を出すのは難しいだろう。なぜなら、少し考えただけでも、予知夢とは自分の世界が作り出すものかも知れないと感じるのに、そこから先が何も見えてこない。まるで平行線が続いていくような感覚すらあるのだ。
「それとですね。私が今一番危惧しているのは、自分が普段と違うことをしていて、そのことに気付いているということなんです。もし気付いていなければそれほど感じないのでしょうが、何か因縁のようなものを感じてしまえば最後、予期できない何かが起こりそうな気がして仕方がないのです」
そう言って、少しうな垂れていた。さっきまで力説していた力はすでになく、正体不明の何かに怯えているといったそんな姿が窺える。
「それが本を読むということですか?」
「ええ、今までにも何度かありました。普段しないことをして、何となく気持ち悪いと思っていると、不吉な予感がして、その通りのことが起こるのです」
「考えすぎではありませんか?」
「それも感じています。そうなんです、考えすぎなんです。気付かなければ何もなく通り過ぎていることでも、気付いてしまったことによって変な意識をしてしまう。それがまずいのではないかと……」
男の声がか細く感じられるようになってきた。明らかに何かに怯えている。
しかし、考えてみれば面白いことである。
――気付かなければ、どうなんだろう――
作品名:短編集23(過去作品) 作家名:森本晃次