⑤全能神ゼウスの神
役立たず
サタン様は無言のまま、魔界の森に足を踏み入れる。
プロビデンスの間を出て以来、私たちは一言も言葉を交わしていなかった。
(話しかけても返事してくれないし…。)
森の奥深くへ入ると、仮住まいにしていた小屋が見える。
サタン様はその小屋の前を通りすぎて少し歩いたところで、立ち止まった。
そして、何やら魔法の詞らしきものを詠唱する。
次の瞬間、ポンッとあの可愛らしい家が現れた。
サタン様はすぐにその扉を開けると、そのまま待っててくれる。
「ありがとうございます…。」
私が頭を下げると、サタン様は人差し指を口に当てて首を小さくふった。
『黙んな。』
リカとここへ来たときの言葉が蘇る。
(そうか。)
(ヘラ様に感づかれないように、声をあげたらいけないんだ。)
私は口元をおさえると、小さく頷いて室内に入った。
私が入るとすぐに鍵が掛かる音がする。
「はー…。」
よほど緊張していたのか、サタン様が大きなため息を吐いた。
先ほどまでの鋭い視線や表情は消え、いつもの明るいやわらかな笑顔で私を見る。
「良かった~、無事に辿り着けたー。」
私はそんなサタン様に頭を下げながら台所へ向かった。
「ふふ、ありがとうございます。飲み物をご用意しましょうか?」
すると、サタン様が嬉しそうに満面の笑顔で頷く。
「あ、じゃあエスプレッソよろしく。」
そしてカウチに腰かけて、身体を横たえた。
その顔色は、青い。
(そうだ。)
(ヘラ様から陽を守る為に、サタン様はオーラを使い果たしてるんだった。)
私はそこで激しく後悔する。
(神界にいる間に、オーラをあげればよかった。)
この時空の狭間に来てしまったら、もう私のオーラを分けることはできない。
(とりあえず、疲労回復できるものを…。)
私は、小さな冷蔵庫を開けてみる。
すると、さすがリカの部屋のコピーだけあって、チョコレートが何種類か入っていた。
(よし。)
私はそれを手に取ると、早速すぐに作り始める。
(こんなんで申し訳ないけど、とりあえず…。)
「サタン様。お待たせしました。」
私がテーブルにカップとお皿を置くと、サタン様が起き上がった。
待っている間うとうとしていたのか、欠伸をしながらテーブルへ向けられた赤い瞳が驚きに見開かれる。
「…え?」
(辛党のサタン様はやっぱりお好きじゃなかったかな…。)
「あ、あの、お疲れのようだったので甘いものをと思って…即席で作れるのってこれくらいしか思いつかなくて…もし苦手だったら無理して召し上がらなくていいですから!」
私が焦ってお皿を隠そうとすると、その手をサタン様に掴まれた。
「…サタン様?」
「好き。」
至近距離に迫った赤い瞳に見つめられながら、囁かれる。
(!?)
ドキッとした瞬間、その赤い瞳が半月に細められた。
「俺、デザートの中でチョコバナナが一番好きなんだ♡」
そして嬉しそうに笑うサタン様に、身体中から一気に力が抜ける。
(…なんだ…。)
一瞬でも勘違いした自分が恥ずかしい…。
(良かった…サタン様が思考を読める人じゃなくて…。)
脱力する私の前で、サタン様はエスプレッソとチョコバナナを両手に持って嬉しそうに笑った。
「うまーい♡」
私は苦笑しながら、自分もコーヒーを一口飲む。
「すみません。気が利かなくて。もっと早く気づいていたら、神界でオーラを分けて差し上げられたのに。」
謝る私に驚いた表情を浮かべたサタン様は、ふっと小さく息を吐いた。
「くれるっつーても、貰うつもりなかったよ。」
「え?」
「だって、めいちゃんだってオーラ回復してないのにさ。俺、そこまで外道じゃねーし。」
そして悪戯っぽい笑顔を浮かべて、二本目のチョコバナナを手に取る。
(…ほんとに優しい人だな…。)
「てか、俺はゼウスと違ってそこまでオーラ使わねーし。使ったぶんくらいは、城でエサ抱いたらすぐ快復するしさ♡」
(…さすがです、サタン様。)
目を逸らす私を見てサタン様はからからと明るく笑うと、飲み干したカップをソーサーに置いた。
「めいちゃんも、休みなよ。」
言いながら、カップとお皿を手に立ち上がる。
「疲れてるだろ?俺が番しててやるから、心配しないでゆっくり休んで。」
そして手早くカップやお皿を洗うと、布巾で拭き始めた。
「めいちゃんのも洗っとくから、置いてていいよ。」
ニッコリ笑うサタン様に、私は慌てて首をふる。
「サタン様にそんなこと!」
「言っただろ?俺、元は奴隷だって。」
やわらかな金髪を揺らして、サタン様が穏やかに微笑んだ。
「だから、『様』なんてつけなくていーんだよ。」
サタン様は私の前にストンと座ると、そっと私の頬に手を添える。
「リカさんみたいに、呼び捨てにしてよ。」
「よ…呼び捨て…?」
淡い金色の光が広がる中、高鳴る鼓動に掠れた声が出た。
「そ。イヴラヒムとでも、イヴとでも。」
言いながら更に身を寄せてくるサタン様に、まるで魅入られたように体が固まる。
(このままじゃキスしてしまう…!)
そう思って目をぎゅっと瞑ったその時。
サタン様のスマホが鳴った。
「ちっ。」
小さく舌打ちしながら離れたサタン様に、ホッと胸を撫で下ろす。
(た…助かった…。)
床に手をつくと、全身から汗が吹き出した。
「なに?」
電話に出たサタン様の声は、いつになく不機嫌そうだ。
「うん………ふーん…………りょーかい。その件については考えがあるから任せて。とりあえず、今はゼウスを回復させないといけないし、たぶんしばらくは放ったらかしてても大丈夫だから、そのまま様子見でいいよ。…うん、ゼウスには俺から報告するから、今は言わなくていい。…ん?…ああ、…もうちょいしたら帰る。」
プツッと電話が切れると、サタン様はスマホを手に持ったまま考え込む。
「…何か、起きたんですか?」
恐る恐る尋ねると、サタン様はスマホをポケットに入れながらため息を吐いた。
「あの魔物…あちこちの時空間を荒らして回ってるみたいなんだ。」
(え!?)
驚く私の前で胡座をかくと、サタン様は脚に肘をついて髪の毛をガシガシかき混ぜる。
「宇宙のあらゆる星にちょっかいかけてまわってるみたいなんだけど、今はゼウスも動かせねーし、俺も不十分じゃん。…だから、たぶんリカさんがなんとかしてくれるだろうしさ、しばらくは丸投げしよーかなーて思って。」
私は、思わずサタン様の手を掴んだ。
「…リカ…リカの様子を見せてください!」
必死の形相の私に、サタン様は一瞬目を細める。
けれどすぐにニヤッと笑って、私の手を掴み直した。
「これから、俺のこともイヴって呼んで、ため口になるなら。」
言いながら迫るサタン様から逃れるように、顔を背ける。
「わ…わかりまし……………わかった!…イヴ!!」
そう言った瞬間、サタン…イヴの顔が破顔した。
そして、自分からそう言うように迫ったくせに、なぜか顔を赤くしている。
「…くく…。」
堪えきれない笑い声を、イヴが漏らした。
「…そんなに、嬉しい?」