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蘭陵王…仮面の美少年は、涙する。

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雪が降っている。それ以外には何もなかった。いずれにせよ、裏切り者と呼ばれ、事実に於いてそうであり、功労者と呼ばれ、事実そうであった Thô[粗]あるいは Thơ[詩]と言う名の一人の老人が、ほとんど金を残すこともなく、ただ、広がった敷地の隅の小さな平屋の中で死んだことを、眼差しの内に何度目かに確認する。不意に雲がちになったかと思うと、水という水をすべてぶちまけたような豪雨に包まれ、南部の雨期のような雨が降る。屋根のトタンを打ち付けるそれが立てた轟音に包まれて、Xấu !



ひどい! その背後の女声を聞く。ココナッツの葉々の雨の中の激しい上下は、そして木立がざわつく。屋外のあらゆる場所で立てられた音が、ばらばらの塊のまま耳の中に木魂し、私は音響そのものを持て余してトイレに立つ。Thôが書いたものなのかもしれない発音記号つきのアルファベットの書の前を通り過ぎ、私は一度顔を洗って鏡に映す。蛇口から水滴が撥ね、排水溝に水流は音を立てて流れ込み、やわらかい白い日差しは水の上を這うが、片時たりとも崩れ続けてやまない。私は美しい。おいさらばえたものの。鏡の中のそれが証明していた。私は、私の泣きながら微笑んだような顔を濡らした水滴をそでで拭う。気候のため水が少し生暖かい。不意に鍵の壊れたドアが開き、顔を上げた一瞬、その女と目が合った。もう若くはないその女は丸い鼻を一度、驚いて豚のように鳴らし、その見開かれた黒目が私を見つめ、逸らそうともしないままに彼女が早口に何か言い訳するが、私に聞き取れないことは本人もすでに知っている。ややあって独(ひと)り語散(ごち)乍ら、困りはてた笑みとともにようやくドアを閉め、私は水を止めた。サイゴンでよく出会った雨期の雨に似ている。それは、不意に、世界のすべてを洗い流さずにはおかないような豪雨を叩き付ける。いまだ、都市整備が都市の規模に追い付いていないそこは、その度に路面中に波紋にまみれた泥水を氾濫させるが、ドアを開ければ、彼女がどんな風にしているのか、私にはわかっている。そのとおりに、ドアのすぐ横に崩れるように座り込んで、すがりつくように床に手をつき、彼女は荒く、小さく、息を吐く。瞳孔を開ききらせたままに、発情期の雄犬のように、その昏い瞳で私を見上げたまま、視線を外すことさえできない。今、この瞬間には、立って、まともに歩くことすらできないはずだった。私は美しい。私はそれを知っている。雨上がりの路面を踏み乍ら、家に帰る。



ぶちまけるだけぶちまけて、空っぽに成った空が見事に晴れ上がり、流れ残った水滴の群れを煌かせ、それは妻の母の家だった。狭くはない、奥まった敷地に入る路地を抜け、白い家屋の影をくぐる。妻を呼ぶが、気配さえない。家屋の中に、誰の気配もなく、寝室の中には誰もいない。まだ9時にもなってはいない。私は知らない。Thô は眠っている。Thô は目を覚ます。三十歳になったばかりの彼は Lanh ラン を思い出す。Lanh は必ずしも美しいわけではない。だが、彼は彼の女の一人なのだから、彼はあの女に会いに行かなければならない。寝息を立てまま、Thô は身を曲げ、窓越しの浅い日差しが彼の足元を差した。Lanh はやがて韓国兵だったか何だったかに射殺されてしまったが、Lanh は Thô を待っている。 Lanh と待ち合わせた川沿いの橋の袂に向かって自転車をこぐ。反乱と呼ぶべきなのか、革命と呼ぶべきなのか、独立戦争と呼ぶべきなのか、統一戦争と呼ぶべきなのか、長い殺し合いが起こっているさなかには違いないが、蝶さえ舞う農道を通り抜け、不意に現れた軍服の男に Thô は舌打ちして、サイゴンの将校だといえば正にそうなのだが、すべての軍人が今この瞬間に戦争をしていることなどありえない。すさんだ目つきで Thô を犯罪者のように詰問する彼らに彼は、不意に、人違いだ、と Thô は言った。誰かが密告したに違いない。何のために?女たちの狂った嫉妬のせいかもしれず、Lanh の周りの男たちが Thô を売ったのかもしれない。誰もが誰かに協力し、誰もがそれ自身の必然性と倫理をた易く獲得し、誰かもが何かを望んでいる。誰も信用してはならない。ハノイに行ったきり帰ってこない旦那の留守の間に自分になびいてきた Lanh をも含めて。誰がなぜ密告したのか知らないが、彼がサイゴンの将校であることは事実だった。アメリカが手を引いてしまった後、暇つぶしのように彼は書を書いたものだった。Thô の拘束を察知した Lanh はどこかへ逃げて仕舞った。母猫が子猫を残して逃げ去るように。彼女は知っている。子猫ばかりが生き残ったとしてもそれは死期の遅延に過ぎないが、自分が生き残りさえすれば、いくらでも子猫など生産し得る。その決断は、この意味に於いては否定しようもなく正しい、と、Thôは思ったものだ、例えば、日陰で涼み乍ら、敷地をゆっくりと横断するいつのまにか住み着いた猫を眺めながら。書を書くまにまに。私は妻を探すのを諦め、外に出ると、やや、かすかに湿気を帯びた雨上がりの大気が押し寄せてきた。Hồ はずぶ濡れになったに違いない。或いは、気の利く彼の従者たちが彼に合羽を差し出しただろうか?ベトナム人たちが必ずバイクのシートの下に保管しているそれを、たとえ一着しかなく、自分がずぶ濡れにならなければならないとしても、びしゃびしゃと、雨期のサイゴンのあの懐かしくすらある雨のように降りしきった突然の雨の中、庁舎に連れて行かれた Thô は、例えば沈黙、例えば闘争、いくつかの選択肢があるには違いないが、まるで俺は今、犯罪者のようだ。しかし、たしかに、彼はすぐさま 彼らにとっては。話し出す。彼らに、自分の知っているありったけを。口を割らされたのではなかった。Lanh は今、目の前で笑っていた。冗談めかして唐突に Long time no see you... と彼女に笑いかけたために、振り返って、Thô の死を疑っていなかった Lanh は彼が解放されて不意に現れたときに、そして Thô を訝るように見るベトミン兵たちにあの時、自分が今言っていることビルはすべて本当だと悟らせるためだけに、Long time no see you. 彼は言った、文法的に、と Thô は思ったものだった、何故、何の前置詞もそこにはないのだろう? 本当だ、と Thô は、文法的に間違っているのではないか? あなたたちは信じなければ為らない。なぜ、まだ生きてるの?罵るように叫んで Lanh は、私はベトミンの支持者だ。わめき散らすようにベトミン兵たちに叫ぶが、けれど、米兵たちがみんなこれを言うのだから、いいいか?、友よ、文法的に正しいと言わざるを得ない。いいか?南ベトナムで生活するすべての者がサイゴンを支持しているとは限らない。にも拘らず、 Bạn bè 友よ、サイゴンに、

…あなた、生きてたの?