小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

短編集21(過去作品)

INDEX|5ページ/21ページ|

次のページ前のページ
 

 第一線にいた頃というのは、いかに自分の仕事をスムーズにこなすかだけを考えていてまわりに自分から気を配る必要もなかった。自分が上司になって初めて第一線の人を見ると、しなければいけないことが自然と見えてくる。当然、気配りも必要だろうし、何と言っても今まで自分が受けてきたように、部下にも自信を持たせることを最大の仕事だと思えてきたのだ。
――そのためには自分が落ち着かなくては――
 そう思うようになった。上司の話を聞いて一番信じることができるのは、相手に落ち着きのあるなしだったような気がする。落ち着きのない人からいくら自信になることを言われても、それはただの社交辞令にしか見えないからである。
 忠文の人と違うところは、自らが陣頭指揮に当たって仕事をしていたことである。
 小さな鉄工所なので、それほど社員数が多いわけでもなく、それは致し方ないことなのだが、それでも彼はよく働いた。仕事の段取りに手順はあるものの、それ以外で自分のやり方を強制するわけでもないところが、部下からの信任が厚かった理由でもある。
「米田さんは実にわかりやすく教えてくれる」
 と部下が言えば、
「米田君に指導を任せておけば大丈夫だ」
 と上司からも信頼を受ける。実にやりがいを感じながら、順風満帆でやってきたのだ。
 それがちょっとした不注意から起こした事故。まだまわりの人たちを巻き込まなかっただけよかったのだが、さすがに当分の間仕事のできる状態ではなかった。入院も経験し、初めて孤独感を味わったのもその時だっただろう。
 さすがにその時は参っていた。あれだけあったはずの自信が崩壊したのだ。指の怪我の方は時期が来ればすぐに治るだろうが、心に受けた傷は相当なものだったようだ。
 最初はそれほどでもなかった。まわりの皆も心配してくれていて、とにかく身体さえ治ればすぐにでも復帰できるくらいに思っていたのだが、日に日に言い知れぬ不安に苛まれていくのを感じていた。
 入院は身体的なことよりも精神的なことの方が大きかった。
 夜になると精神的に不安定になり、一人でいることが恐くなる。眠くなって布団に入るまでは普通なのだが、布団に入ると胸の鼓動が激しくなり眠れなくなる。一回そういう経験をすると、
――今晩もまた眠れないのでは――
 という不安が襲ってきて、横になるとやっぱり眠れない。
――まるで眠れない夢を見ているようだ――
 と思うほど精神的に不安定になっているのか、頭痛に苛まれてしまう。
「心療内科がいいですよ」
 それまでに考えたこともなかった心療内科の扉を叩くのは、さすがに抵抗があった。
――まさか入院になるとは――
 仕事のことも気になっているのに、まさか入院とは思っていなかった忠文は、今自分がどうなっているのか不安で仕方がなかった。まるで他人事のようで、それこそ夢ではないかと思うほどである。
 そんな時、忠文は考えていた。今まで自分を省みることなどなかった忠文である。ある意味、考える暇もないほど働いていたと言った方がいいかも知れない。
 確かにいつも何かを考えていたが、それは先だけを見ていたのだ。今までのことは確かに通過点にしか過ぎないが、
――過去があって現在がある。現在があるから未来がある――
 ということを今さらながらに痛感している。入院しただけでおかしくなってしまうほど精神的に弱かったことを悔いているのかも知れない。
――遠い空が見たくなったな――
 漠然と感じていた。感じていることがまるで他人事。思ってはいるが、実現不可能と決め付けているかのごとく、すぐにその考えは打ち消された。まるで、もう一人の自分がいて、心の中で思ったことを片っ端から消していっているように……。だが、強く思っているからであろうか、これだけは後からでも何とか思い出すことができるのだ。
「考えていることがあったら、紙にでも書いて残しておいてください」
 医者からそう言われた。きっと打ち消すもう一人の自分の存在を、医者は知っているのだろう。そのあたりはさすがだと思えた。
「遠い空が見たくなった」
 と書いてみた。紙をじっと見つめてゆっくり考えるが、しばらくすると紙を丸め、そのまま屑入れに捨ててしまった。
「何やってるんだろう?」
 声に出して自分に問いてみる。しかしもう一人の自分が答えてくれようとしない。
 しかしそれでも指の怪我が治るにしたがって、精神的にも少し落ち着きを取り戻していた。さすがにこの歳になるまで結婚もせず、決まった彼女もいない忠文にとって、この入院生活は苦痛以外の何ものでもなかった。
「だいぶ落ち着いてきているようなので、退院を許可します」
 医者の話を聞いて、
――やっとこれで家に帰れる――
 と心の底から嬉しかった。これで仕事復帰も近いはずだと思っていた忠文だったが、数週間の入院くらいならそれほどのブランクはないと感じていたのだ。
 それを感じたのは退院してからであって、家に帰ってくると入院していた時期が皆無だったかのように、何も変わっていない部屋が迎えてくれた。相変わらずの暗く冷たい部屋である。
 まるで昨日まで自分がそこにいたかのような錯覚があったが、しばらく部屋にいるとやはり入院期間中が長かったことを感じさせた。暗さと寒さがそれを暗示していたかのようである。
――こんなに暗い部屋に住んでいたんだ――
 今さらながらに思い知らされた気がした。
 とにかく何をしていいのか分からない。仕事が終わって帰ってきてからのいつもの行動は決まっていたはずである。それが一瞬思い出せなかった。最初に思い出せないと思い出すまでに時間が掛かるようで、しばらく放心状態だったかも知れない。その時に感じた「暗さ」は今までに感じたこともないものだった。
 目が慣れてくると次第に思い出してくる。それまでにどれほどの時間が掛かったかは分からないが、思い出してくると後は早かった。
――確かコーヒーを入れるんだったな――
 そう、会社から帰ってきて最初に考えるのは、コーヒーを飲むことだった。それまでにテレビをつけて、暖房を入れて……。だんだん思い出してきた。
 身体が覚えていたことなのだ。「コーヒー」というキーワードさえ思い出せば、後は自然と行動に移せる。今まで培ってきた「生活の色」がこの部屋にはあるのだ。
――それはどんな色をしているのだろう?
 忠文は青系統が好きだった。カーテンも薄いブルーを使っているし、部屋の色調は基本的に青系統が多い。
――赤も好きなはずなのだが、なぜ赤を使わないのだろう?
 そういえば以前にも考えたことがある。しかしそれをハッキリと覚えていないのは、きっとすぐにその答えを見つけたからかも知れない。
 部屋が暖まってくると、生活が戻ってきた。そこには間違いなく以前の忠文がいるのだ。
――以前の自分?
 まるでもう一人の自分が留守番をしていたような気がする。
「おかえり」
 言葉が聞こえるくらいの錯覚を感じたが、そこにいるもう一人の自分が本当に今の自分なのかどうか、分からないでいる。
 テレビはつけているが、見ているわけではない。目には入ってくるのだが、意識しているわけではないのだ。
作品名:短編集21(過去作品) 作家名:森本晃次