茨城政府
ダイヤルを回してデジタル表示を『1945 04 01』にしたリックの指先が、いや、全身が凍ったように動かなくなる。しまった、高砂教授のニックネームは忍者、65歳、年相応の白髪頭に痩せた長身・猫背。とても忍者には程遠いが、足音を立てない歩き方で気配をあまり感じさせない。このため教授に他意はなくとも研究に没頭している学生をしばしば驚かせる。
「何してるんだ!」
強められた声音に、リックは反射的にポケットから取り出したバタフライナイフを回転させると振り向きざまに立ち上がる。刃物の形に変形したバタフライナイフが立てた金属音と、鈍い声がほぼ同時に響いた。
長身をくの字に折って横たわる高砂の白衣がみるみる赤く染まり早くもベージュの床をも染め始める。生死の淵を彷徨っているだろう高砂の口は何も発しない。が、リックは気にも留めずに操作を続ける。今日は日曜日、しかも夏休みだから誰も来ないかもしれない。だが早い時期に誰かに見つかる。俺たちの企みを悟られてはいけない。自分が触ったスイッチ類をハンカチで指紋を拭き取ると、キーボードを端末から抜いて入念に拭く。一度に押されたいくつものキーが戻る乾いた音が妙に耳障りだ。
−落ち着けよ。−
息遣いが荒くなっている自分に言い聞かせる。初めて人を刺した。だがどうってことはない。教授は悪い人じゃなかったがジャップはジャップだ。
一旦深呼吸をしたリックは、接続しなおしたキーボードの上にハンカチを広げ、その上から操作する。これなら指紋も付かないだろう。俺たちが操作した内容を消さなければ。そして、いかにも教授が実験中『何者かに』刺されたことにしなければならない。そうだ、金も奪っておこう。いや、どっちがいいんだ。この研究目当ての殺人にするか、不幸にも強盗に狙われたことにするか。まあいい。どう判断するかはジャップの腐った警官の想像力に任せよう。とにかく、履歴を消して、教授が実験の最中刺されたことにすればいい。リチャードを戻すのは、事が落ち着いてからにしよう。さっさとここから離れて、血の付いたナイフやシャツを片付けないとな。
履歴を消したリックは、次に教授がやろうとしていたプログラム−広域大気汚染交換実験−茨城県全体の大気を他の時代の大気と交換する設定を起動すると、ハンカチを取り、他の端末の同型のキーボードと交換した。
−−−−−茨城県 東茨城郡 下中妻村上空−−−−−
しつこくて下手なP−51Dの銃撃を左へ右へと横滑りで避けているうちに満蒙開拓義勇軍 内原訓練所の上空まで来てしまった。視界の左隅には常磐線の線路が並行して伸びる。眼下の広大な敷地には満州開拓のための農作業訓練場が広がり、大小の木造平屋の建物が点在する。しかし、これを過ぎるとまもなく水戸の街だ。銃撃を受けながら市街地上空を飛ぶわけにはいかない。かといって急旋回をするには高度が低すぎる。一旦上昇して急旋回をすべきだが、上昇に転じた途端に撃ち落されるだろう。もう少しだけ粘ろう。硫黄島まで戻る燃料を気にして奴らが諦めるかもしれない。
−−−−−つくば大学 工学部 環境エネルギー工学科 高エネルギー研究室−−−−−
声が出ない。
どれぐらいここで倒れていたのだろうか?
あの男は確かウチの研究室の。駄目だ、何も考えられないし、何も思い出せない。目が回る感じで酷い吐き気がする。
高砂は横たわったまま何とも表現しがたい違和感がする腹部へと手を伸ばす。
なんだこれは。目の前に運んだ右手の状況が信じられない。血だ。そうか、俺はあの時刺されたのか。おぼろげながらも断片的な記憶が組み合わせれ始める。
「何かされていたら歴史が変わってしまう。」
それだけは意識が朦朧とした高砂にも明確だった。
腹をやられているためか力の入らない足を引きずるようにして床を這い、残された腕力を振り絞って体を椅子の上に引きずり上げる。眩暈と吐き気、眠気まで出てきて制御卓に突っ伏しそうになるのを必死に耐える。何やら『広域大気汚染交換実験』に関連した何かを、茨城県全域に何かをしていたようだ。駄目だ、目まで霞んできた。
「何をやっていたんだ。ん?1945年?」
滲んだ視野に映る『1945 04 01』と示された赤いLEDセグメント表示に凍り付く。だがそれも一瞬、遠のきそうになる意識を堪えることが厳しくなってきた。
「とにかく、エリアブロックしなければ、」
エリアブロック機能。「時空転換装置」は、あくまで大気や水資源を過去と入れ換えて浄化するのが目的である。過去に移転した汚れた大気や水は、その豊富な汚染のない大気や水で希釈され、さらに豊富な自浄作用で無害化される。その際に地上まで過去と転換しないように現状をブロックし、歴史と切り離す機能がエリアブロック機能である。高砂は、まず茨城県全域をセットした。が、そこまでだった。力尽きた高砂の上体が制御卓にのしかかると、システム全体が弾かれたように動き出した。
−−−−−茨城県 東茨城郡 鯉渕村上空−−−−−
陽光で輝く千波湖の水面が目に映る。その向こうには水戸の街並み。いつもなら心癒される景色が墨田に決断を促す。
「もはやこれまでか。」
振り返る墨田の視界の中で、3機のP−51Dが我先に射撃位置につこうと乱舞している。あれじゃあ当たらん。しかし、このまま水戸上空に連れて行くわけにはいかない。旋回をするためには少し上昇しなければならない。その時、機体上面を敵に晒すことになる。下手の銃撃でも必ず当たる。
もう一度後方を覗うが状況は変わらない。こればかりは運を天に任せるしかない。
スロットルを上げて増速し3,2,1、無意識にカウントダウンをする。
「ゼロ」
操縦桿を若干引いて、左に倒しこむ。零戦が右よりも左旋回の方が得意なことは体に染みついている。 再び振り返った墨田の視野が真っ白になる。逆光の類ではない。眩しいというよりも、真っ白だ。
−あ、俺は撃たれたんだ。死ぬというのは、こういうことなのか−
諦めというよりは安堵している自分に苦笑する。前も後ろも上も、みんな真っ白だ。
一瞬の後、爆発音で我に返る。自分がさっきまでいた場所にコンクリートの巨大な橋が出現し火炎で包まれている。火炎は2つ、3機目は橋にぶつけたのか、尾部が大破してバランスを失い、弾かれたボールのように大塚池に水柱を上げる。湖畔に洋風の住宅が立ち並ぶが、あの形は大塚池だ。
「なんだこれは。」
180度旋回を終えた墨田の目に、高さの異なる大きなビルが映る。明るい灰色のビルは側面の殆どをガラス張りにしている。
「どうなってるんだ。」
畑や水田に林、茶色と緑で彩られた大地は、灰色の道路と大小様々な建物そして少しの緑に色彩を変えている。
「何だあれは」
灰色の道路を埋める、よりどりみどりの原色系の粒、それらが自動車であるのに気づいて声を失う。
無線で基地を呼び出すが、もともと調子の悪い無線機はいつも通りに雑音を発するだけだった。
「とにかく基地へ」
前方の筑波山が見慣れた姿であることに妙な親近感を抱きつつ、基地へと急いだ。